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大体の物事には順序、手順がある。勿論、それが絶対ではないものの、料理にしろ、作法にしろ、スポーツのフォームにしろちゃんとその順序、手順には理由、理屈があり、その通りにやった方が上手くいくことが多い。
…では、恋愛の手順とはなんだろう。一般的には『知り合い』、『距離を縮め』、『交際を申し込み』、そしていずれ、『肉体関係を持つ』と言ったところではないだろうか。
そして、そんな順序を間違ってしまった中学生の性愛を描いたのが、今回紹介する浅野いにおの『うみべの女の子』である
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Contents
あらすじ
夏になっても特に賑わうことがない、海辺の町。そこで暮らす佐藤小梅は中学二年の終わり、慕っていた三年生の三崎先輩に手酷くフラれ自暴自棄になった末、以前告白してきた東京出身の内向的な同級生、磯辺恵介と衝動的に初体験を済ませた。
行為後に磯辺は改めて交際を申し込むが、小梅はそれを拒絶する。しかし、小梅は翌日三崎に再び振られたこともあって磯辺の家に赴き、また体を重ねるのであった。
その後、三年生に進学した小梅だったが、相変わらず恋人になることは拒否しながらも、好奇心とスリルから陰で磯辺との肉体関係を続けていた。
そして、磯辺もそんな気まぐれでワガママな小梅の要求を受け入れ“秘密の関係”は保たれていたのだが、ある日海辺で拾ったSDカードに入っていた美少女…“うみべの女の子”の画像をきっかけに二人の関係は変質していく…
浅野いにおが描く少年少女の生々しく”イタい”関係
初期の『虹ヶ原ホログラフ』の頃から私は元々浅野いにお氏の作品が好きだ。『浅野いにおが好き』と言うと”サブカルくそ女”と認定され、叩かれることも多いのだが、好きなものは好きだからしょうがない。実写と漫画が融合した繊細な画はもちろん、一言で表せない人間の生々しく過剰な自意識をイヤと言うほど見せつけてくる感じがとても好きなのだ。
そういうわけで本書は本屋の新書コーナーで『浅野いにお』という名を見つけて、脊髄反射で購入した訳なのだが、読んですぐその性描写の多さに度肝を抜かれた。そして、掲載元を確認し、「あ、マンガ・エロティクス・エフなんだ…」と納得したのを覚えている。浅野いにおは元々『虹ヶ原ホログラフ』や『おやすみぷんぷん』等でも性描写もちょいちょい入れて来る漫画家ではあったのだが、ここまで正面から”性”を描いたのはこれが初めてなのではないかと思う。
しかし、中学生の小梅と磯辺の未成熟な肉体で行われるそれはエロティックというより、むしろ痛々しい。そして、その性描写以上に、小梅と磯部の”在り方”とそのコミュニケーションが痛々しいのだ。
小梅は何か具体的な問題を抱えているわけではない。あまり勉強は好きではないものの、親友の桂子と同じ高校に行くために真面目に夏期講習に参加して、成績もちゃんと伸ばす。明るく、友達も多く、それなりに愛らしい容姿もしているので、なんだかんだとモテる。鍼灸院を営む両親は小梅に愛情を注ぎ、『純粋で素直ないい子』だと思っている。しかし、小梅は何もない海辺の町で、これといって特別な誰かではない自分に、うまく言えないやるせなさと焦燥感を持っている。そして、そんな苛立ちや不満をぶつけ打ち明けられるのは両親でも親友でも幼馴染でもなく、体を重ねる相手である磯辺なのだ。
しかし、飄々としている様に見える磯辺の方こそ実は誰にも言えない大きな苦悩を抱えていたのだ。磯辺の三歳年上の兄は一年前、海で高波にさらわれ死亡。不幸な事故として処理されたのだが、磯辺はそれが自殺であることを知っていた。両親が共に激務で不在がちな磯辺の心の拠り所は、兄が残した、漫画と音楽、そして兄が運営していたまとめブログを更新すること。そんな閉じた世界に生きていた磯辺が唯一外の世界へ持っていた興味、憧れが小梅だったのだが、何度告白しても恋人にはしてくれない小梅との関係に磯辺は意義を見出だせなくなり、孤独を深めていく。
そして、“うみべの女の子”をパソコンのデスクトップ画像にした磯辺に、小梅が嫉妬し画像データを削除したことで決定的な軋轢が生まれてしまう。その後も二人の肉体関係は続くものの、立場は逆転。体を重ねる毎に磯辺への愛着を深め“心の繋がり”を求めるようになる小梅に反比例するように、磯辺は小梅への関心を少しずつ失っていき、兄の死に囚われるようになる。
そして、そんな二人の関係を周囲はなんとなく気付いている。けれども、誰も小梅に直接追及しない…そんな微妙な空気が非常にリアルだ。小梅の親友、桂子は小梅のことを心配し、心を痛めているが磯辺のことを問い質せない。『親友なのに』ではなく、『親友だからこそ』だ。ただ見守ることしかできない。
そして、小梅の幼馴染みの野球少年、鹿島は長年想い続けてきた小梅をぞんざいに扱う東京出身…よそ者の磯辺に怒りを抑えられなくなっていき暴挙に及んでしまう。だが、そんな鹿島のことを秘かに桂子は想っていて見えないところで悩み苦しんでいるのだ。桂子と鹿島のそんな”在り方”も痛々しく、なんとももどかしい気持ちになるのだ。
順番が間違っていなければ、二人の関係は違っていたのだろうか
当初は勢いと好奇心、そしてスリルから体の関係を結んでいた小梅と磯辺。しかし、いつしかそれは二人の心を苦しめるようになる。
「ねぇ磯辺。してもしても足りない気がするのはなんでだと思う?」
うみべの女の子2巻 浅野いにお 74/216
この小梅の磯辺への問いかけが全てを語っていると言えるだろう。小梅も磯辺も真に求めるものは体の関係では無いのだ。小梅は自身を受け止め、愛し、肯定してくれる相手を、磯辺は苦しみを打ち明けられ、自身の閉じた世界から引っ張り出してくれる相手が欲しかったのだ。しかし、先に”セックス”という安易な繋がり方を覚えてしまった二人はそれに振り回され、対話をおろそかにしてしまった。
勿論、”順番”を守った付き合い方をしたからといって満たされるとは限らない。擦れ違いや軋轢は多かれ少なかれ生まれるはずだし、この小梅と磯辺の様な状態に陥ってしまうカップルだっているだろう。
しかし、”順番”を守っていれば、小梅はもう少し素直に磯辺に対して芽生えた愛情を認め、磯辺は小梅に悩みを打ち明けられたのかもしれない…そう思うのである。
磯辺不在のラスト・結末に思うこと
”兄の死”について小梅やブログを訪れた見知らぬ他人にも打ち明ける機会があったにも関わらず、結局最後まで打ち明けられなかった磯辺。兄の無念を晴らすため、そして自身が兄とは違うということを証明するため、兄を自殺に追い込んだ”他人の痛みを想像できない奴ら”の象徴とも言える(と磯辺が判断した)三崎達への”復讐”を行い、自殺をしようと考える。
そして、不穏な何かを感じながらも磯辺が何が考えているか分からずもがき続けていた小梅は磯辺の誕生日で、磯辺の兄の命日でもある文化祭の日、台風の中、磯辺の姿を探しながら町を疾走する。70年代のフォークロックバンドの『はっぴいえんど』の『風をあつめて』を背景に描かれる二人の様子は圧巻だ。そして磯辺と小梅の関係の行く末は…。
この漫画のラストは、高校2年生になった小梅の様子を描いて終わる。そこに磯辺は登場しないし、誰も磯辺の名前を口にしない。美しく成長した小梅は進学先の高校で彼氏を作っている。しかし、その彼氏はほんの少しだけ磯辺に似ており、小梅の趣味にも磯辺の影響が色濃く残っている。不在だからこそ磯辺の存在感が際立つのだ。
そして、鹿島と海辺で再会した小梅は、相変わらず鹿島の好意に気付かない振りをしながら、冬の海で屈託なく微笑んで見せる。
そんな美しい”うみべの女の子”の画でラストを迎える本作は、読んだものの心に傷にも近いある種の引っかかりを残す。間違っても爽やかな青春譚と片付けられる代物ではない。
しかし、そんな痛々しさ、残酷さがあるからこそ、この作品はどこか美しい。浅野いにお作品の中でも屈指の過激さがあり、読む人を選ぶ作品だが、恋愛物に”痛み”や”傷”を求める人には是非お勧めしたい漫画なのである。