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うっかりつまらない映画を観てしまうと、腹が立って仕方がない。数日は引きずる。しかし、一方であまりにも世間から『酷すぎる』と騒がれていると、それはそれで気になって観たくなってしまう、この不思議な心理。
…なんの話かって?映画『未来のミライ』の話である。
昨年2018年に公開され、至る所で宣伝されるも、ネット上では軒並み不評。その一方でカンヌ国際映画祭ではプレミア上映されたり、アカデミー賞等にノミネートされたりと海外での評判は良かった模様。一体どういうことなのだろう、気にはなるが、正直これだけのために金は払いたくない…そう思っていたところに、『金曜ロードSHOW!』が放映してくれた。嬉しい。そういう訳で、『未来のミライ』のあらすじ・ネタバレと感想・考察を書いていきたい。
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Contents
あらすじ・ネタバレ
妹ができたばかりの4才児のくんちゃんはある日不思議な体験をする
季節は冬。横浜にある、建築家のお父さんが建てた小さな中庭とそこに植えられた樫の木が特徴的な複雑な造りの家。そこで4歳の男児、くんちゃんはお父さんとお母さんが生まれたばかりの妹を連れて病院から帰ってくるのを、飼い犬のゆっこと遊びながら待っていた。
両親に連れられやってきた妹はすやすやと気持ち良さそうに眠り、目を覚ますと不思議そうに両親とくんちゃんを見つめる。そんな妹を当初は歓迎し、 一緒にお散歩しようと夢想したり、絵本を読んであげようとするくんちゃん。しかし、両親は妹に掛かりきりでくんちゃんのことを全く構ってくれず、必死に呼んでもまるで聞こえていないかのよう。くんちゃんが妹と遊ぼうと列車のオモチャを揺りかごの中に入れると怒る。そんな両親の態度にくんちゃんは次第にいじけていってしまう。実はお母さんは編集者の仕事にすぐに復帰する予定で、今後在宅で仕事をするお父さんに家事や育児を教え込んでいるのだが、お父さんは上手く要領を掴めず、二人とも余裕が無かったのであった。
だが、そんな両親の事情を4歳児のくんちゃんが理解できるはずもなく、ある日とうとう不満が爆発してしまい、妹の顔を引っ張るイタズラをして泣かせてしまう。駆けつけたお母さんに「仲良くして」と叱りつけられるも「仲良くできない」とより拗ねてしまい、ついには列車のオモチャで妹の頭を叩いてしまった。「生まれてきたばかりなのに信じられない」と叫び、くんちゃんを弾き飛ばして妹を抱き寄せたお母さん。ショックを受けたくんちゃんは「妹なんて好きくない!」と号泣。その後も余裕の無さからただ自分を叱り続けるお母さん、そして抱きついても妹ばかりをあやし、自分を見てもくれないお父さんにくんちゃんは子どもながらに絶望する。
泣きながら中庭に出たくんちゃん。すると、樫の木が突然光り、「無様ですなぁ」と何者からか声を掛けられる。気がつくとそこは朽ちた洋風の中庭と化し、見たことのない男が立っていた。彼は自分のことを王子と言い、「あなたは嫉妬しているのだ」とくんちゃんに言う。
彼はくんちゃんが生まれる前に、この家で、それは大層大事にされていたと語る。しかし、くんちゃんが生まれてからは、食事もすっかり安物に代わり、おやつも無くなり、愛を失ったと悟ったと言う。それがどんなに悔しくてみじめだったかと訴える男は「いずれあなたもこうなる、いい気味です」とくんちゃんを笑う。しかし、いまひとつ男の言うことが理解できないくんちゃんは傍らにいつも飼い犬のゆっこと遊んでいるボールを見つけ、何気無く投げてみる。すると、男は走ってボールを取り、くんちゃんに渡してくる。男の正体は飼い犬のゆっこだったのだ。
そのことを悟ったくんちゃんが男のコートを捲り、おしりを確認するとしっぽがあった。しっぽは引っ張ると簡単に取れ、試しに自分のお尻につけたくんちゃんは、犬の耳が生え、犬の様に四つ足で素早く駆け回れるようになった。慌てたゆっこが「しっぽを返せ」と追いかけるも、大喜びしたくんちゃんは逃げ回り、そのまま家に入ってしまった。
驚く両親。二人の目にはくんちゃんではなく、飼い犬のゆっこが大暴れしているようにしか見えないのであった。ひとしきり暴れたくんちゃんは溜まっていたストレスを解消、ゆっこにしっぽを返す。その後、落ち着きを取り戻したくんちゃんは両親に「ゆっこがもっと美味しいドッグフードを食べたがっている」と伝える。お父さんは早速買いに行くと言い、ゆっこは嬉しそうに鳴くのであった。
その晩、子供達が寝た後、今後育児家事を担うことへの不安を漏らすお父さん。くんちゃんが生まれた頃は仕事を言い訳にほとんど育児家事をすることが無かったのだ。それでも家事育児に興味が出てきたと言うお父さんは、ふとくんちゃんの妹の名を思いつき、お母さんに提案する。妹は「未来」と命名されるのであった。
妹、ミライちゃんの初節句のお祝いの後、くんちゃんの元に未来のミライちゃんがやってくる。彼女の目的は…
時間が経ち、お雛様の季節がやってきた。お雛様に興味を持つも「女の子のものだから」と触らせてもらえず、初節句を祝いにやってきた母方祖父母もミライの動画ばかり撮ろうとするため、くんちゃんは面白くない。ふと、動画を撮っていた祖父がミライの右手のひらに赤いアザがあることに気が付く。そのアザは生まれつきのもので問題はないという。その後は皆でちらし寿司を食べながら『曽祖父が曾祖母に駆けっこで勝って、結婚してもらった』という伝説(曽祖父は足が悪かったのでそれは嘘ではないかと言われている)等の話で盛り上がるのであった。
仕事に復帰したお母さんは出張に行く日の朝、「お雛様をしまっておいて」とお父さんと頼んだ。初節句のお祝いで祖母が「お雛様をしまうのが一日遅れると一年婚期が遅れる」と言っていたのを気にしているのだ。
しかし、家事やくんちゃんの幼稚園の送迎にてんてこ舞いのお父さん。くんちゃんも「お父さんはいや、お母さんがいい」駄々をこねて泣いてばかり。くんちゃんを幼稚園から連れ帰ったお父さんは、家事を片付けると、仕事を始めて集中してしまい、くんちゃんが話しても生返事をするだけで顔も上げない。面白くないくんちゃんはミライちゃんの顔にクジラのクッキーを貼り付けるイタズラをするのであった。
その後、くんちゃんが庭に出ると、また樫の木が光り、辺りは蝶が飛び交う緑溢れる庭園と化した。ふと下を見ると、さっきまでくんちゃんが食べていたクッキーが落ちている。クッキーに導かれて進んでいくと、そこには顔にクジラのクッキーを貼り付けたセーラー服を着た少女が立っていた。
「お兄ちゃん、わたしの顔で遊ぶのやめてよ!」
そう言う少女が一体誰だか分からず、キョトンとするくんちゃん。しかし、少女の手のひらには妹のミライと同じアザがあった。彼女はなんと未来から来たミライだったのだ。
ミライはくんちゃんに「お雛様を早くしまってってお父さんに言ってきて」と頼む。毎年少しずつでも、しまうのを忘れ続けたら婚期がどんどん遅れていき、好きな人と結婚できないかもしれない…どうやら好きな人がいるらしいミライは焦っているようだった。
しかし、くんちゃんは「ミライちゃんのこと好きくない」と言って、未来のミライの頼みを断る。そんな幼い兄にミライは呆れるのだが、『蜂ゲーム』なるくすぐりをして、どうにか懐柔。くんちゃんにお父さんに雛人形をしまうように言いに行かせた。しかし、お父さんは仕事に集中していて、くんちゃんが声を掛けても生返事で上の空。仕方なく、くんちゃんとミライ、そして人間の姿となったゆっこと協力して片づけることとなった。
しかし、「赤ちゃんのミライと未来のミライは家の中で同時には存在しない」とゆっこが語るように、未来のミライが家の中に入ると、その間は現在お父さんのすぐ側にいる赤ん坊のミライの姿は消えてしまう。三人(二人と一匹)はどうにかお父さんにバレることが無いように隠れながら雛人形をしまっていく。途中何度かバレそうになったり、お内裏様の笏(しゃく)がお父さんのズボンのお尻に貼り付いたり等のアクシデントに見舞われながらも無事、お雛様を仕舞うことができたのだった。去り際、この共同作業でくんちゃんと打ち解けた未来のミライは「自分(妹)のことを少しは好きになったか」とくんちゃんに尋ねる。しかし、くんちゃんは「好きくない」と答え、未来のミライは呆れながら去っていくのであった。
その後、帰宅したお母さんは雛人形を仕舞ってくれてありがとうとお父さんに礼を言うが、覚えのないお父さんは困惑する。そんな両親のやり取りを見たくんちゃんは得意げに「くんちゃんとミライちゃんとゆっこで仕舞った。未来のミライちゃんにあった」と言うのであった。
お母さんと喧嘩したくんちゃんは幼き日のお母さんと邂逅する
そして、それからまた季節は巡りゆき、ある日くんちゃんはお母さんとアルバムを見ていた。くんちゃんを妊娠している時、結婚式、大学生、高校生、中学生、子供の時等の様々なお母さんの姿を見るくんちゃん。
その後、くんちゃんはお母さんに祖母が来るからとおもちゃを片付けるよう言われる。ダダをこねるくんちゃんはお母さんから「言うことを聞かないとおもちゃを捨てる」と言われてしまい癇癪を起こし、ついついミライに当たろうとしてしまう。厳しい顔で「仲良くして」と止めるお母さん。しかし、そのタイミングで祖母がインターホンを鳴らしたので、ミライだけを連れて去ってしまう。くんちゃんは苛立ちを止められず一人家の中におもちゃをぶちまけるのであった。
いじけたまま中庭に出るくんちゃん。するとやはり樫の木が光り出し、気が付くとくんちゃんは『水の中にある草原』とでも言うべき不思議な場所に立っていた。そこには未来のミライがおり、「どうしてお母さんに気遣いできないの。お母さんを大事にして。」と先ほどまでの態度を咎めてくる。しかし、くんちゃんは「(お母さんは)くんちゃんはかわいくないの?」と泣き出してしまい、その感情に呼応するようにやってきた大量のカージナルテトラに流されて知らない街に辿り着くのであった。そこで、くんちゃんより少し大きいくらいの女の子が背を向けてしゃがみこんでいた。泣いている様子の女の子をくんちゃんは慰める。
顔を上げたその女の子はアルバムで見た幼い頃のお母さんであった。『猫を飼って欲しい』という祖母への手紙を感情をこめて(泣きながら)書いていたという。手紙を祖母の靴に入れるとその後、くんちゃんを自分の家まで連れて行く幼い母。
家には他に誰もいなくて、幼い母は「散らかってるほうが面白いんだもの」と言っておもちゃやお菓子を豪快に散らかし始める。幼い頃のお母さんはくんちゃん以上に物を散らかす子供だったのだ。「たしかに散らかっている方が面白い、お菓子も美味しい!」そうくんちゃんが答えると幼い母は大喜びをし、調子に乗った二人は家の中を滅茶苦茶に荒らし、大はしゃぎするのであった。しかし、そこに幼い頃のお母さんのお母さん、つまり若い頃の祖母が帰ってきてしまう。慌てて家からくんちゃんを出す幼い母。家の中からは、ヒステリックに「こんなに散らかすなんて信じられない!あんたのおもちゃを全部捨てるからね!!」と激しく叱りつける女性の声と泣き叫ぶ子どもの声が聞こえ、いたたまれなくなったくんちゃんはその場を走り去る。
夕方、眠ってしまったくんちゃん。居間でお母さんと祖母がケーキを食べながら昔話をしていた。結局幼い頃お母さんは猫を飼ってもらうことはできなかった。お母さんの幼い頃について「手が掛かる子で散らかしてばかりだった」と振り返る祖母。そんな祖母にお母さんは「自分が片づけられるようになったのは結婚してからだ」と平然と言ってのけ、呆れさせるのであった。その後、くんちゃんに対して怒ってばかりの自分への嫌悪感を口にするお母さん。しかし、「仕事と育児の両立が大変な中でベストを尽くそうと思っている。くんちゃんには幸せになってほしいからこそ叱るのだ」と語り、祖母はそれに理解を示す。
その後、夜に目が覚めたくんちゃんは横で眠るお母さんが涙を流していることに気付き、「よしよし」と頭を撫でてやるのであった。
補助輪なしで自転車に乗れないくんちゃんはひいじいじにコツを教えてもらう
そして、夏がやって来た。お父さんとミライと一緒に車で自然公園にやってきたくんちゃん。くんちゃんはお母さんの靴の中に手紙を入れると言う方法で買ってもらった補助輪付きの自転車を持ってきており、公園で乗り回すのを楽しみにしていたのだ。しかし、公園に着いたくんちゃんは少し年上の男の子たちが皆補助輪なしで自転車に乗っているのに気付く。補助輪を格好悪く感じたくんちゃんはお父さんに補助輪をとってもらい、補助輪なしで自転車に乗れるように練習したいと頼むのであった。
最初はお父さんが練習に付き合うも倒れてばかりくんちゃん。すると先ほどの男の子たちがやってきて、教えてあげようか、と声をかけてきた。丁度、ベンチに置いてきたミライが泣き出してしまったこともあり、お父さんは「お兄ちゃんたちに教えてもたって」と行ってしまう。心細くなるくんちゃん。結局男の子達も「向こうで待ってるよ」と行ってしまい一人ぼっちに。寂しくなったくんちゃんはお父さんの方を見るも、ミライにかかりきりでこちらの方を見ようともしない。くんちゃんはショックを受け、その場で泣き出してしまうのであった。
「お父さん好きくない!」帰宅したくんちゃんは号泣しながら「何事にも最初はある」と宥めようとするお父さんに怒りをぶつける。もう自転車に乗らないと中庭に飛び出して地面にヘルメットを投げつけるくんちゃん。すると、またしても樫の木が光り出し、くんちゃんの眼の前にエンジンのようなものが現れた。いつの間にか工場のような場所にいたくんちゃん。目の前では精悍な顔立ちの青年がバイクを直していた。
「バイクに興味があるのか?乗るか?」と尋ねる青年。しかし、くんちゃんはどう答えていいか分からずもじもじするばかり。そんなくんちゃんに「何事にも最初はある」と奇しくも先ほどのお父さんと同じ言葉を口にした青年。青年は足を引きずっており、戦争で負傷したのだと語る。
青年はその後、くんちゃんを厩舎に案内し、馬を見せてくれた。
「馬を見るのは初めて」というくんちゃんを馬に乗せる青年。怖がり青年の腕にしがみついて「お父さん」と叫ぶくんちゃん(「何事にも最初はある」と同じ言葉を口にしたことから、くんちゃんは青年をお父さんだと思い込んだようだ)。「怖がると馬も怖がる」「下ばかり見るな。ずっと先を見ろ。遠くを見ろ」と青年は言う。その言葉に従ったくんちゃんの目に飛び込んだのは、普段住んでいる街に似ているけどどこか違う、開けた美しい風景。遠くを見ると、スピードが出ても怖くなくなっていく。その後、今度は青年が作ったバイクに乗せてもらったくんちゃん。二人で海沿いの道を走り抜ける。くんちゃんはバイクから見える景色に感動し、青年に「お父さん、格好いい」と言うのであった。
翌日、くんちゃんは再び自転車に挑戦すべくお父さんに頼んで公園に連れて行ってもらう。お父さんが見守る中、「遠くを見ろ」と言う青年の言葉を思い出しながら、一人で懸命に自転車を漕ぐくんちゃん。何度も何度も転びながらも、自転車を漕げるようになり、男の子たちにも歓迎されるのであった。
ご機嫌で帰宅したくんちゃん。お母さんは「お父さんが応援したからくんちゃんは自転車を漕げるようになったのだ」と言い、お父さんは感動して涙ぐむ。一方、アルバムの中に例の青年の写真を見つけたくんちゃん。「お父さん」と言ったくんちゃんに、お母さんはこれは去年亡くなった「ひいじいじ」くんちゃんの曽祖父だと説明する。それを聞いたくんちゃんは写真に向かって「ありがとう、ひいじいじ」と囁くのであった。
キャンプ出発の朝、ダダをこねたくんちゃんは恐ろしい世界に迷い込んでしまう
くんちゃんの一家は家族でキャンプに出かけることになり、お父さんもお母さんも準備で忙しい。しかし、くんちゃんはお気に入りの黄色のズボンではなく、青のズボンを履かされご機嫌斜め。黄色いのがいいと両親に訴えるが、洗濯中なのでそれは叶わない。出発時間が迫り両親ともに余裕がなく、ギスギスした空気が流れる。そんな中でなおもズボンの色で文句を言い続けるくんちゃんだったが、両親に相手にしてもらえず、「やっぱりくんちゃんよりミライちゃんの方が大好きなんだ」といじけてしまい、「キャンプに行かない!」と隠れてしまう。しかし、誰も探しに来てくれず、我慢できなくなったくんちゃんが戻ると、お父さんの姿もお母さんの姿も見当たらない。「置いて行かれた」と思ったくんちゃんは号泣し、リュックを背負って中庭に飛び出す。
「よくないな」
そう言われて驚いて振り向いたくんちゃん。いつの間にかそこは田園の中の古びた駅になっており、待合室には高校生くらいの少年が不機嫌そうに座っている。
「これからキャンプに行くんだろう?みんないい思い出作っちゃおってはりきってるわけじゃん。それを『好きくなーい』じゃないだろ」
家族といい思い出を作るためにズボンの色へのこだわりを捨てて親に謝りに行くように言う少年。しかし、くんちゃんは反発。そこに電車がやってきて、「乗るなよ」という少年の警告を無視して、くんちゃんは飛び乗ってしまうのだった。電車好きなくんちゃんは窓から見える列車に見とれるが、一つだけ見知らぬ黒くて不気味な列車があることに気付く。
そうして東京駅に辿り着いたくんちゃん。東京駅は巨大で、沢山の人々が行きかい、そしてどこか異様であった。ひっきりなしに迷子の呼び出しがされている。寂しくなったくんちゃんは自身の呼び出しを待つも、くんちゃんが呼ばれることはなく、両親を探すも見つけられない。途方に暮れたくんちゃんは『お忘れ物承り所』の列に並ぶのであった。
『お忘れ物承り所』の列は物寂し気な子どもしかいない。長い列を進み、やっとくんちゃんの番がやってきた。作り物の様な係員からお母さんとお父さんの名前名前を尋ねられるも答えられないくんちゃん。すると、係員は「登録できません。自分を証明できず、誰も迎えに来なかった子供は地下を通る新幹線に乗って、ひとりぼっちの国に行かなければなりません」と告げる。
戦慄するくんちゃん。気付くと薄暗いプラットホームに立っていて、例の恐ろしい列車がやってくる。逃げようとするも吸い込まれそうになり、絶叫するくんちゃん。なおも「自分自身を証明しろ」と係員の声が響くが、それをすることが出来ずに戸惑う。しかし、ふと聞き覚えのある声を耳にし、くんちゃんが振り向くとそこには赤ちゃんのミライがおり、列車に吸い込まれそうになっていた。必死にミライを助け出したくんちゃんは叫ぶのであった。
「くんちゃんはミライちゃんのお兄ちゃん!」
それを聞いた係員はミライに向けて「お兄さんのくんちゃんがホームでお呼びです」と呼出のアナウンスをする。すると、プラットホームにいたくんちゃんの腕の中から、赤ちゃんのミライが消え、未来のミライが飛んでくるのであった。
「見つけた。家出したのに迷子になるなんてバカみたい。行くよ!」
ラスト・結末~中庭の樫の木が記憶している、家族の歴史
ミライちゃんはくんちゃんの手を握ると高々と舞い上がり二人は東京駅の窓を突き破って夜空を昇っていく。しかし、上に広がるのは草原。二人は昇っていくようで、降りていくのであった。そんな二人の行く先には一本の木があった。それはくんちゃんの家に植えられている樫の木で、実はそれはくんちゃんたちの家系の索引であるのだとミライは語る。あの樫の木の中にくんちゃんの家の現在・過去・未来のインデックスが収まっているのだ。そこからくんちゃんのいる時間を見つけないと、くんちゃんは元の時代に帰れないのだと言うミライ。二人は樫の木のインデックスの中に飛び込んでいく。そこでくんちゃんは家族の色々な記憶を目にすることとなった。
ボロボロになりながら自転車の練習をする少年。お父さんだ。昔、お父さんは体が弱くて、小学生になってもまだ自転車に乗れていなかった。泣きながら必死に一人で練習している。
くんちゃんの家に来る直前の子どものゆっこ。お母さん犬と寄り添っている。
猫にやられた燕のひなを手に持って泣いているお母さん。このことがきっかけであれほど欲しがっていた猫が苦手になってしまった。
バラバラになった船、そして海に投げ出された曽祖父。足が傷つき、仲間の遺体に囲まれた彼は慟哭しながらも生き延びるために泳ぎ始める。
その後、「競争して勝ったら結婚してくれ」と曾祖母に駆けっこを申し出る曽祖父。当然足が傷付いている曽祖父は速く走れないのだが、曾祖母は途中で立ち止まり、曽祖父を勝たせてやる。『駆けっこで曽祖父と曾祖母の結婚が決まった』という話は本当だったのだ。
「こんな風に、些細なことが積み重なって、今の私たちを形作っているんだ」
そう語るミライ。驚きながらもそれを受け入れるくんちゃん。
そして、ミライの今。ミライはくんちゃんが田舎の駅で出会った男子高校生を「お兄ちゃん」と呼ぶ。あの少年は未来のくんちゃんだったのだ。そのことを理解するくんちゃん。そんなくんちゃんに未来のミライは「もう一人で帰れるよね」と手を振る。光始める樫の木。「お別れなの?」と寂しそうに言うくんちゃんにミライは笑うのであった。
「何言ってんの。これからウンザリするほど一緒にいるじゃん」
気がつくと、くんちゃんは洗面所にいた。乾燥機が止まって、お気に入りの黄色いズボンが飛び出してくる。一瞬、着替えようとするもやめて、青いズボンのまま、洗面所を飛び出した。
外ではお父さんとお母さんがキャンプの荷物を車に積み込んでいる。くんちゃんを置いて行ったりするわけは無いのだ。「最近優しくなった」「動じなくなった」と互いを評価し微笑み合う二人にゆっこは「仲いい…」とそっと呟く。
いつもプラレールで遊んでいる部屋に向かうくんちゃん。そこには赤ちゃんのミライがいた。リュックに入れていたバナナを半分ミライにあげるくんちゃん。中庭の樫の木を眺める。そのとき、外からお父さんが二人を呼ぶ。返事をするくんちゃん。すると、それをミライが真似をする。驚くくんちゃんだったが、すぐに喜んで「あー!」と叫ぶ。するとやはりそれをミライは真似る。「みんなでお出かけするよ!」という母親の声に、くんちゃんは元気よく返事するのであった。
~終わり~
以下、感想と考察
とりあえず、目についた点、疑問点と評価できる点
冒頭でも述べたが、この『未来のミライ』には批判の声が多い。ネットに至っては『フルボッコ』と言っても良いのではないか。そういう訳なのでもう、文句は言われ尽くしているのだけど、取り敢えず見ていて目につく、気になる点を箇条書きにしていく。
- 4歳男児、くんちゃんを演じる上白石萌歌の声が致命的に合わない。彼女の演技力の問題ではない。やはりこの年頃の子供の声を作るには、子役かプロの声優じゃなきゃダメだろう。
- 4才男児くんちゃんの頭身が低すぎる。これでは2才児相当だろう。他は割とリアルに作っているのに何故だ。
- お父さん、くんちゃんが幼稚園行っている隙に家事をして、連れて帰ってきてから仕事始めているけど、逆の方がいいんじゃない?というか幼稚園より保育園に入れるべきじゃないのか?あれか、横浜市は保育園に入れないという風刺なのか?
- 何故未来のミライ(そしてくんちゃん自身)が時を超える能力を持っているのか。明かされることはなかった。そこが主題じゃないと言ってしまえばそれまでなのだけど。「雛人形しまい忘れて行き遅れになるのが怖いから」という理由で過去にやって来たミライちゃんだが、『お前、マジで日頃からそんなどうでもいい理由でタイムリープしてんの!?』と突っ込みたくなる。
- 『同一の存在は一人しかいられない』みたいなことを雛人形を片付ける時にゆっこが言っていたのだが(未来のミライが家の中に入ると元々いた赤子のミライの姿が消える。人間化したゆっこが家に入るとやはり犬のゆっこも消える)、作中後半、普通にくんちゃんは未来のくんちゃんと会話している。何でだ。好意的に解釈するならば、『同一の存在は一人しかいられない』のは『家の中』だけ、あるいは他の場面と違って電車でのくんちゃん同士の対話シーンから悪夢の東京駅のシーンはくんちゃんの心の中の世界だったから大丈夫なのだ等と考えられなくもないが、一見するとただ矛盾しているだけに見えてしまう。
- 舞台となる家、生活導線が滅茶苦茶すぎてそっちの方に意識が行ってしまう。『絵』としての面白みを出したかったのだろうけど、何回見ても慣れない(この辺りの感じ方は個人差ありそうだ)。あまりにもバリアフルで死角が多く、子育てするのに不向き過ぎるし、年寄りにはキツイ。こだわり・お洒落さ>>>>>実用性なのかと思ってしまう。まあ、価値観はそれぞれだけどね…。
- ラスト、唐突に語られる『庭の樫の木が、家族の歴史のインデックスである』という真実。いきなり『インデックス』なんて横文字出されても…と感じてしまう(ちなみにこれのせいで、一緒に視聴した夫はこの作品を『とある家族のインデックス』と呼んでいる)。
…文句ばかり書いてしまったが、もちろん評価できる点もあって
- 映像が美しい。昔の街並みとか、家の様子は風情があっていい(とはいえ、今後は何かにつけて新海誠監督の作品と比較されてしまうのだろうが)。
- 悪夢のような東京駅の演出は中々に不気味で良いと思う。
- 『家族の歴史の積み重ねの上に今がある』という展開は新鮮味は無いものの、アニメーションにすると感動的になって良いと感じた。
しかし、基本に後述のものを含めて突っ込みたいところが多いため、なかなかそういった美点に目が行きにくい。
『未来のミライ』の家族観を考察する① ~成長すべき・我慢すべきは子供なのか
しかし、この『未来のミライ』が最も叩かれる原因は、作中を通して滲んでくる細田守監督の家族観・親子観が原因だろう。
単刀直入に言えば、下の子が出来たばっかりの長子、くんちゃんの扱いが酷過ぎる。
もちろん、親だって完璧ではない。自身の感情を抑えきれず子どもに当たってしまうことだってあるし、必ずしもベストな対応をできるわけではない。恐らく、そういった理想との乖離、『現実・リアル』を監督は描きたかったのだろう。『親だって人間なんだ。欠点や未熟なところがあるんだ』と。その狙いは分かる。
しかし、それを差し引いても『未来のミライ』のくんちゃんの親(と母方祖父母)のくんちゃんへの接し方は中々酷いものなのだ。二人目を出産し、産院から連れ帰ってきた直後、父親、母親双方とも余裕が無いのは分かる。我が家も現在同じような状態だ。しかし、くんちゃんが話し掛けてもガン無視するのは何故?返事すらしないってどういうこと?そして、外でも子どもを放置するのに抵抗が無いのか、父親は自然公園(根岸森林公園)でくんちゃんの自転車の練習を見知らぬ子供達に丸投げしたりする。くんちゃんがそれを望んでいないにも関わらず。祖父母も祖父母で、ミライの初節句のお祝いに着たときは『女の子は男の子た違って服の着せがいがある』とくんちゃんがいる前で平然と言い放ち、ミライの動画ばかり撮り、くんちゃんが自分のことを撮って!と主張しても適当にあしらおうとするばかり。普通に撮ってやれよ。じじい、お前のiPadのデータ容量はそんなに少ないのかよ。
親や祖父母がそんな感じなので、くんちゃんが拗ねて『ミライちゃん、好きくない!』となるのは至極当然。4才児がそんな大人の事情を汲んで、気遣いするなんて無理だ。それに対して両親(特に母親)は『お兄ちゃんでしょ』『優しくして』と叱るだけなのだ。フォローらしいフォローは全く無し。
まあ、確かに子ども二人もいると、どうしても手が回らないこともあって、特に下の子が乳児だと上の子には『ちょっと待ってて』となってしまうこともある。子ども二人連れていると、周囲は無意識に下の子ばかりちやほやしがちだったりもする。それを子どもから見たらこんな風に理不尽に感じるのだ…と多少大袈裟に描きたかったのかもしれない。
だが、一番の問題は、作中この親の態度が改められることが無かったという点だろう。この作品の大筋が『くんちゃんが成長して妹を受け入れられる様になる』というのは理解できるし、それ自体は普通に受け入れられる。しかし、上述した通り、くんちゃんが妹を受け入れられない、意地悪をしてしまう原因の大部分が両親の接し方にある。それにも関わらず、そこを問うことはなく、ただくんちゃんが不思議な体験を通して、不満や問題を自己解決し、ひとりでに成長していくというパターンがひたすら繰り返される。(例を挙げるなら、妹が来て構ってもらえずいじける→犬になって思いっきり暴れてストレス解消。自転車に乗れるようになりたいのに、お父さんが真面目に付き合ってくれない→亡くなったひい祖父さんと不思議な交流をし、その経験から一人で乗れるようになる)。
確かに子どもは親が知らぬ間に成長することも多く、ビックリさせられるものだ。とはいえ、これではくんちゃんに『長子なんだから甘えるな、現実は甘くない』と一方的に我慢と成長を強いている様にしか見えない。 一応、母親の方は『くんちゃんのことを怒ってばかり』と自己嫌悪したりもするのだけれども、『仕事と育児の両立は思うようにいかない。でも幸せになってほしいから怒っているのだ』と現状を肯定して終わる。いや、自分も働きながら子育てしているから両立の大変さも分かるし、思うように行かない現実も知っている。時には開き直るのが必要なことも。しかし、くんちゃんへのこういった接し方、態度とその現状を良しとしてはダメだろう。
『オオカミこどもの雨と雪』でも、ややドライな親子観が描かれていたが、流石に今回は突き放し過ぎ。相手は幼児だぞ。このドライさが、海外ではどの様に受け止められたかは分からないが、少なくとも日本では受け入れられはしなかった。少しでも親がくんちゃんが如何に寂しく感じていたか気付いたり、ミライちゃん抜きで思いっきり甘えられる時間を設けてあげている様な描写があれば、全然印象は変わるんだろうけどなぁ。
『未来のミライ』の家族観を考察する②~リアルさを出したかったのであろう、夫婦関係
そして、ここまで批判され受け入れられないのは、上記の親としての在り方だけでなく、くんちゃんの両親の夫婦関係の描き方もあるだろう。
建築家と編集者。ともにいわゆるクリエイティブな職に就き、お洒落(?)な家に住み、お洒落な暮らしをしながら二児に恵まれたこの夫妻は一見すると理想的だ。しかし、最初の子を出産した頃、夫は仕事にかこつけて育児家事を放棄していた。今回の二人目誕生後は妻が早期に職場復帰することから、在宅で仕事をするようになった夫が家事育児を中心的に担うこととなった。しかし、一人目の時の恨みが今になって噴出しているようで、夫に家事育児の指導をする妻の態度は刺々しく、ことあるごとに嫌味が入る…。
実際にありそうな話である。細田守監督は観客(特に母親か)の共感を得るため、ちょっと生々しくもあるこの設定、描写を作中に込めたのだろう。しかし、この下りは共感するどころか、どこか不愉快ですらある。何故か。
終始ギスギス、イライラしっぱなしの妻に、ペコペコしながらも確実にフラストレーションをためている様子の夫。なまじリアルに描かれている分フィクションと分かっていても、やはり見ていて気持ちの良いものではない。そして、その状況がこれといって解消した様な描写がないまま、ラスト二人は互いに笑顔で車に荷物を積み込んでいる。まあ、互いに折り合いがついた、妻の恨みは時間が解決した、夫が家事育児に慣れてきた…など想像で補完できる部分もあるし、『スッキリ揉める原因が無くなって仲直り』とならない方が確かに現実的である。
しかし、これはアニメーション映画で、一見暖かな家族ものだ。そういう種類のリアリティさを観客は恐らく求めていない。
ファンタジー要素の強い、アニメーション映画なのだ。何かしらこの夫婦の関係が改善するような演出、『こうあれば良い』という様な方向性を指し示しても良かったのではないか。
意図的かつ中途半端に描かれたリアルさは共感ではなく嫌悪感を集めてしまう。
上記の『親子観』にも言えることなのだが、そういった演出がことごとく裏目に出ているようにしか見えないのだ。
ケモナーとしての細田監督を考える
※以下、性的嗜好についての話が続きます。更に個人的な解釈をもって言いたい放題書き連ねていくため、そういった話題が苦手な方、興味の無い方は飛ばしてください。
以前、Eテレの『浦沢直樹の漫勉』で、漫画家の浦沢直樹(20世紀少年の人)と浅野いにお(ソラニンの人)が対談する中で、
『絵はフェティシズムの宣言であること』『作品を通して読者に自身のフェティシズムを知られることの恥ずかしさ』について語っているのを見て、驚愕するとともに、深く納得してしまった。確かに、創作活動は作り手の価値観が滲み出る。性的な嗜好も含めて。
まあ、例えば小説なんかでも、同じ作家の作品をいくつも読んだりすると
『大体ヒロインは、日焼けしたアウトロータイプの男とくっつくよなぁ…』
とか
『著者、号の深い美女に振り回されたい、尽くしたい欲をもて余してんな…』
と気付いてしまったりもする。
そう考えると、絵面が前面に出てくるアニメやマンガは、本当に作り手のフェティシズムが分かりやすく露呈しやすい。
鳥山明がショートカットの女の子が好きなのなんてドラゴンボールを見てるだけで分かるし、あだち充がミディアムボブがドストライクなのは日本人なら皆知ってるだろう。
で、細田守監督の作品から漏れてくるフェティシズムは何か。…それはケモナーである。ソフトな言い方をすると、いわゆる『獣人』が好きな人なのである。なんのこっちゃっと思う人もいるだろうので需要があるかは分からないが、細田守監督のケモナー遍歴を作品とその評価ととともに振り返ってみようと思う(フリー以降)。
2006年『時をかける少女』… 興行収入2.6億。 この作品についてはケモナー要素無し。普通に作品の完成度が高く、注目を集める。
2009年『サマーウォーズ』… 興行収入16.5億。 大好評。これで細田守監督の名が知れ渡る。しかし、ここでケモナーの片鱗を見せる。終盤でヒロインのゲーム上のアバターが出てくるのだが、それがケモミミ和装の少女で、やたら可愛くて色っぽいのだ。登場時間はわずかであるものの、鮮烈な印象を残す。
2012年『おおかみこどもの雨と雪』… 興行収入42.2億と前作の倍以上。脚本について前2作品を担当した奥寺佐渡子氏と共に監督も脚本を担う。またもやヒットするも、一部からはその独特な家族観について疑問を呈される。
タイトルから分かるように、ケモノ要素を正面から扱う。ケモノ化した少年少女の姿がイキイキとしていて、あとどこかエロティックなのだ。この作品で、『あ、こいつケモナーだ』と気付いた人、多いのでは?
2015年『バケモノの子』…興行収入58.5億円と前作のおおかみこどもを上回るも、基本的に低評価。ストーリーも突っ込みどころ満載な上、広瀬すずがヒロインの声優をしてプチ炎上。広瀬すず自体が当時一部からバッシングを受けていたことに加え、声優も慣れてないし、ヒロインの性格、言動にも難ありという…。実はこの作品から脚本も細田守監督一人が担うようになったのだ。
そして、細田守のケモナーワールドがここで爆発。バケモノ界(渋天界)がメインの舞台であるのだが、バケモノ=獣人である。獣人の野郎達が武術と称して絡み合う。何だかその辺りの描写に並々ならぬ執念を感じられ、『あれ、細田守監督ってケモナーなだけじゃなくて、男色のケあるの?それとも腐女子を取り込もうとしてるの?それにしても…』と混乱する人も。あと、ショタコン要素もあるという。
そして、2018年『未来のミライ』…興行収入28.8億円と興業収入がガックリと落ち込む。前作の半分以下だ。前述した通り、『家族観』『ストーリー』が批判される。
そして、ケモナー要素…やりやがった、やらかしやがった…!
大してストーリー上、入れる必要がないのに、ケモナー要素をぶちこんできたのだ。4歳の男の子を獣人化(犬化)させ、ハアハア言わせる。新進気鋭の女優に、なんてことをさせるのだ。そこをやたらエロティックに描く。というかこのためにくんちゃんの声を子役ではなく上白石萌歌にしたのではないか。
『あ、こいつヤベー奴だ』と戦慄。上記の『家族観』等についても色々と思うところがあったのだが、個人的に一番この作品で『ありえないわ』と思ったのはこの点なのだ。
そして、最早インタビュー等でもケモナーであることを隠さない。いや、元々隠す気はないのだ。実は細田監督は以前テレビでディズニーの『美女と野獣』が放映されているときにTwitterで実況していて、『野獣王子の造形』を礼賛し、『ベルと王子のキスシーンが王子が人間に戻った後であったこと』に文句を言ったりとケモナー全開の言動をしている。生粋のケモナーなのだ(しかし、人間に戻る前の野獣の王子の方が格好いいという点には私も同意したい)。
結構ボロクソに言ってしまったが、別にケモナーが悪い訳じゃない。性癖それ自体を否定しようとは思わない。
何が問題って『家族もの』を謳って子どもも含めた大衆に向けた作品で自身の嗜好を爆発させていることだろう。それもただ獣人を出すのではなく、意図して官能的に描いていることだ。それが何とも薄気味悪く思えてしまう。
実は細田監督は『人類ケモナー化計画』を目論む闇の組織の一員で、青少年達をケモナーにするためだけに映画を作り続けてるんじゃないだろうか。もう、そう思えて仕方がないのだ。
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まとめ
まあ、色々と書き連ねてしまったが、何が言いたいかというと、細田守監督はもう、ファミリー向けとか家族もの…要は大衆向けから離れて、もうちょっと対象年齢高め、あるいはマニアックな層に向けた作品を作った方が良いのではないかということだ。その方がより、やりたいようにやれるのではないか。直々に原作・脚本を担った2作品の不評さから分かるように、細田監督の家族観は大衆受けはしない。今までの様に大衆向けの家族ものを描き続けたいのなら奥寺佐渡子氏など、他の人を脚本家に迎えて、監督の癖をうすめた方が良いのではないか(と偉そうに言ってみる)。
未来のミライ…映像もキレイだし、庭が異世界と化す描写や発想は素晴らしいのだけど、何だか色々と惜しい作品だなあと思うのだ。