「仕事」は辛くなったら休んだり、辞めたりしても世間からそう、非難されないだろう。
「恋人・夫婦関係」はお互いに合わなかったり、信頼関係が崩れたなら、別れても世間は許すだろう。
では、「母親」はどうだろうか?休んだり、辞めたり、逃げたりすることを社会は許してくれないだろう。ましてやその理由に「子の障害」が絡んでいたりしたら・・・。
この作品は、発達障害を持つ娘の「母親をやめた」女性の実話を描いた漫画である。
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Contents
あらすじ
幼い頃に父親を亡くし、母子家庭であることにコンプレックスを持ちながら育ったかこ。彼女の長年の夢は「明るい家庭」を築くこと。大人になり好きな人と結婚した彼女は、不妊治療や流産を乗り越えて待望の子どもを授かり、生まれた娘に「たから」と名付け愛情を注ぐ。しかし、異常なかんしゃくやパニックを起こすたからは2歳7か月で「広汎性発達障害」と診断される。たからの発達障害を少しでも良くしようと療育に奔走するかこ。しかし、たからと心を通わせることは難しく、ゴールの無い療育の日々に彼女は次第に心を病み、鬱状態に陥る。 そして、いつしかたからと向き合うことから逃げ、チャット依存症、新興宗教、不倫に嵌り、最終的に夫と離婚し、娘たからを手放すのであった・・・
以上があらすじである。 こう書くと「ただの障害を理由に娘を捨てた最低な母親の話」と捉えられてしまうかもしれないが、本書は発達障害児を抱えた母親の孤独と葛藤、そして如何にしてかこが追い詰められ破綻してしまったかがしっかり描かれていて、色々と考えさせられる作品なのである。
以下、考察を交えつつ、本作についてもう少し詳しく紹介していきたい。
かこはどんな人間か・・・誤解されがちな「最低な母親像」について考える
発達障害を持つ娘と向き合うのを辞め、うつ状態からチャット依存症、宗教、不倫に逃げ込んだ、かこという母親は一体どういう人間なのか。 本作品のレビューでは「最低で自分勝手な母親。人間として未熟だっただけで、娘の発達障害は関係無い。そもそも母親になるべきではなかった」といった厳しい評価を彼女に下す声も多い。 しかし、私はかこが「親になる資格を持たない、自分勝手で未熟な人間」とは全く思えないのだ。
かこの人間像を窺い知れるエピソード
かこは、非常に真面目で努力家で行動力を持った女性だ。そして忍耐強い。 夫が仕事をやめ、無職の間も養いながら不妊治療をし、自らも勉強する。夫が約束を破り公務員試験の勉強をサボっていたと知っても、寄り添い、建設的な話し合いをする。 妊娠中は安産のため、暑い中毎日非常階段を昇り降りするため図書館に通う。 産後はたからの体調不良等についても、ちゃんと調べ的確な対処をしていく。 そして、たからの発達障害にもいち早く気付き、診断の予約を取り付ける。 その後も信頼できる医療機関や保育園を探し、たからの療育の環境を整えていく。発達障害についても誰よりも勉強する。
彼女は出来る限りのことをしてきたのだ。 ただし、彼女にも短所、というべきか異様なこだわりをもっていることがある。 かこは生きていくうえで「対人関係を良好に保つこと」「他者への共感の気持ち」を非常に重視している。 それは、母子家庭で育っていることから「多数派から外れる疎外感」を持ち続け、恐れていること。そして、娘たからと同じ発達障害を持っていると思われる実母は、かこに共感したり寄り添ってくれたことがなく、寂しい思いをし続けたためだ。 実際に社会で生きていくうえで対人関係や共感の気持ちを持つことは大事だ。かこは自身が努力しそれらを保ってきたがゆえに、それを不得手とする発達障害を「どうにかしてあげたい」と悩み続けるのだ。
やや独善的で視野が狭い彼女だが、根本的に真面目であるがゆえに「何かしなくては」という焦燥感に苛まれるのだ。
世間がイメージする「ダメな親像」の誤解
未だに「育児放棄したり虐待する親は責任感が無く、不真面目で未熟な人間」という思い込みがまかり通っている。もちろんそういう親も少なくはないが「意外にも真面目で教育熱心な親が追い詰められて虐待に走ったり、精神を病み育児放棄に至ることもある」という認識は浸透していない。かこはまさに、そのケースと言えるだろう。
かこは何に追い詰められたのか
娘の為を思って、誰よりも療育に奔走していたはずのかこが、何故不倫し娘を捨てるという行動に至ったか。一体何が彼女を追い詰めたか。本作を読んで考えられるのが以下の3つである。
1、長年憧れていた理想の家族像(微笑みあう家族)
2、障害児をありのまま受け止め、愛さなければならないというプレッシャー
3、将来への不安
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長年憧れていた理想の家族像(微笑みあう家族)
前述したとおり、幼少期から「明るい家庭」に憧れを抱いていたかこ。それは、子に微笑みかければ、微笑み返してくれる。夫と子が触れ合う光景。笑い声があふれる家庭。しかし、そうはならなかった。
微笑みを返すことがない娘たから
動物園で笑いながら話し合う親子を後目に、たからは1人クルクルと回り続ける。他者に興味を示さず、シナリオの決まった遊びを延々と繰り返す。母親であるかこにくっついてはいるものの、それが愛着ではなく、「ママこだわり」という発達障害特有のこだわりの一つでしかないと理解したかこは絶望する。娘と気持ちが通じ合うことはないと絶望する。
娘を避け、療養にも協力しない夫
愛し合い結婚した優しい、穏やかな夫は、確かに優しいが、主体性が無く、自分の趣味・時間が無いと駄目な人間。かこが一度流産したとき、悲しんでいた時も慰めはするが、すぐに部屋にこもり一人で趣味に没頭する。かこがそのことに不満を言うと「かこが望むから協力しただけで、自分は別に子どもは欲しくなかったから同じように悲しめない」と言い放つ。そういった経験から、たからに関する諸問題を一人で抱え込むようになったかこ。せめて夫に「子どもを持って良かった」と思ってもらおうとするも、発達障害で激しい癇癪を起すようになったたからと夫は関わろうとしなくなっていく。そして、かこと夫の間の溝も深まるばかりで、その事実が家族に憧れていたかこの心を荒ませていく。
障害児をありのまま受け止め、愛さなければならないというプレッシャー
「普通の子が良かった」と思ってしまうかこ
印象的なエピソードがある。
療育教室のママ友が二人目を出産する。二人目は健常児であった。それに対し、教室の先生が「良かったねぇ、思い切って二人目産んで。普通の子は親を癒してくれるから」と言う。
その発言に母親達が後から「まるで普通の子は可愛いが、発達障害児が可愛くないと言いたいみたい」等憤る中で、かこは心で呟く。
「…私も普通の子の方がきっと可愛いと思う」
そして、自分よりも症状の重い子供を育てるママ友が「我が子だもん。無条件で可愛いよねぇ」と言うのを聞いて、後ろめたくなるのだ。
真面目で頭が良いかこは、発達障害について、かなり勉強をし、理解し、少しでもたからの状態を良くしようと対策、対応していくが、たからの発達障害を受け入れている訳ではない。内心ずっと「発達障害でさえ無ければ…」「ハズレくじを引いた」という不満が渦巻いている。そして、そんな自身と世間一般の障害児の母親像(笑顔で明るく子どもの障害を受け入れ、愛する母親)との解離に苦しむのだ。
実際、本書へ対する批判は多いが、その中には障害を持つ子の母親から批判もある。辛さが分かっていて、かつ自身が今現在耐えているからこそ、許せないのだろう。
「どんな子でも受け入れる覚悟」が無いなら親になってはいけないのか?
しかし、受け入れられない人に「受け入れろ」と説教すること程、不毛なことはないのではないだろうか。受け入れたいのに、受け入れられない。だから苦しんでいるのだ。よく、「どんなこと(障害、トラブル等)があっても責任を持って育てるという覚悟がないなら子供を産むべきではない!」というような主張を目にする(自己責任論の一種だろう)。
しかし、私はそれは暴論だと考えている。何故なら、産んで、育ててみないと分からないことなんて沢山あるからだ。 「案ずるより産むが易し」という諺の語源から分かるように、産む前にあれこれ悩んでいたとしても、産んでみたら案外問題なくすんなり育てられることもある。 一方、その逆もまたしかりで、どんな心構え、準備をしていても、急な環境の変化に心がついていけなかったり、意外なトラブルに見舞われて幸せな育児とかけ離れていくこともある。 だから、「どんな子供、状況でも受け入れる覚悟が無いなら産むな」という主張を私は好きになれない。そんなことを言っていたら子供を持てる人間なんて誰もいないのだから。
かこはたからの発達障害を受け入れられず、苦しむ。
しかし、こればかりはどうしようもないことだろう。どんな正論や非難をもってしても、「彼女の気持ち」を変えることできないのだ。
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漠然とした将来への不安
理想の家族像からの解離や、自身がたからの発達障害を受け入れられないことに苦しみながらも、熱心に療育を続け、たからと向き合い続けていた、かこ。 療育が功をなし、たからは癇癪を起こすこともなくなり、問題なく保育園に通えるようにもなった。 そんな中で、彼女は急激にメンタルを病んでいく。そして、チャット依存症になり、宗教、不倫に陥っていく。何があったのか。実は特に何もないのである。
現実では特にトラブルを抱えていなかった、かことたから
例えば、療育教室で知り合ったママ友のマユ。彼女は発達障害を持つ末の息子のために、自身の店を畳まざるをえなくなり、また、夫や夫親族からは「母親のしつけが悪いだけ」と責められ続ける。 また上の二人の息子も発達障害を持っており、学校で教師や同級生との間でトラブルを起こし続け、周囲から白い目で見られている。
しかし、かこ自身は、たからの発達障害を理由に誰かから責められたりもせず(実母から無神経な発言があったり、夫は頼りにならないが)、たからも発達障害を理由にいじめられたり、排除されたりもしていない。
それにも関わらず一体何が彼女の心を蝕んだのか。それは、漠然とした将来への不安だろう。 たからの状態が落ち着き、幼稚園に登園するようになり、かこが目下出来ること、するべきことは無くなってしまった。 一人で過ごす時間が増えた彼女は自然と今後のことに思いを馳せる様になったのだが、それは全て暗い妄想となってしまう。
「この先友達と上手くやれずにいじめられてしまうのでは」「引きこもりになるのでは」
漠然とした不安、妄想の質の悪いところは、現実のトラブルと異なり、具体的な行動を取れないことだ。 だって、しょせん妄想だから。 考えれば考える程、最悪なことばかり思い付いて、どんどん煮詰まっていく。そして、ネット検索で出てくるネガティブな情報がそれに拍車をかける。
漠然とした不安に対処する方法
こういった漠然とした不安に対する有効な対処法は、家族、身近な人間に相談し、支えてもらうことだろう。 「大丈夫だよ前向きに考えよう」「支えていくから」「自分も一緒に将来のこと考えるから」 こういった言葉がきっと救いになる。
しかし、前述の通り、かこの夫には主体性がなく、発達障害で気難しいたからと触れ合おうとせず、発達障害について勉強すらしない。 そして、恐らくたからと同様の発達障害である実母は、彼女なりの考え方を持っているものの(発達障害を理由に友達が出来なかったとしても何も困ることはない…等)、かこの気持ちに寄り添い、相談相手になることは出来ない。
唯一、かこが本音と将来の不安を分かち合えるのは、前述のマユだけで、ともにネガティブな思考に陥っている二人の会話は 「発達障害児の母親のうつ病発症リスクは10倍らしい」 「虐待される子の6割は発達障害児らしい」 といった、より憂鬱になるようなことばかり。二人は傷口を舐め合い、化膿させるような不毛な関係になっていくのだ。
新興宗教にも救いを見出せず、不倫に走ったかこ、そして離婚へ
そして、将来への不安から逃れるため彼女はマユに誘われて新興宗教に入信(この状況を見て、止めすらしない夫は一体何なんだろう)。しかし、幸か不幸か常に頭の一部は冷静で物事を客観視しているかこは、宗教にはまりきれなかった。子ども達の障害を「親の業から生じたもの」として、「障害を持つ子を不幸」と決めつける新興宗教に反感をも持つ。一方でマユは宗教からも追い詰められ、ODで自殺未遂して救急搬送されるまでになってしまう。
宗教にすらハマれなかったかこは、チャットで知り合った男性と不倫することで現実の不安から逃れるようになり、家事も放棄するようになった。そして夫から離婚を求められるとあっさりと応じ、たからを手放すのだった。
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離婚に際し、かこの気持ちは
離婚したのはたからが6歳の時。夫がたからを引き取り、自身の実家で育てると言ったときも特に反対はしなかった。かこ自身たからと付き合うことに疲れていたことに加え、療育の知識を持っていたことで、たからにとっても年の近い従兄弟達がいる夫実家の方がSST(社会に適応するためのトレーニング)になって良いと考えたためだ。
世間から浴びせられるであろう自身への批判に対しても うるさい!!私は普通の家族が欲しかったんだ!!そう、開き直るのだった。
そして、別れの日、夫の運転する車に乗せられたたからは両親の間にある冷えた空気を察することなく楽しそうに去っていく。そしてかこもまた、何の感慨も持つことなく見送るのだった。
ラスト、母親をやめたかこがたどり着いた境地は…
夫と離婚し、娘と離れたかこは、フリーライターとして生きていく。後悔の念に苛まれながら日々苦しんだり、はめを外して自堕落になったり…というようなことはなく、平凡に堅実に暮らしていく。
そして、たからが離婚してから8ヶ月。久々にたからと会い、1週間ともに過ごしたかこ。 昔の様に優しく、かつ適切に、しかしどこか淡々と割り切って相手をするかこだが、たからの成長に驚き、「あっちに行って正解だった」と思うのだった。しかし、たからが寂しそうな素振りを見せたことに動揺する。
そして、夫の実家までたからを送っていった実母から、帰りの新幹線でたからが静かに泣き続けていたことを告げられ、「あなたは私とたかちゃんのこと、人の気持ちがわからない障害だとか言うけれど…あなたこそ、たかちゃんの気持ちなんにもわかってないね」と言われてしまう。
その後、三人で暮らしていた部屋の荷物を整理していたかこは膨大な発達障害の資料の中から、自閉症当事者の書いた詩を見つける。そこには、
私たちのことを嘆かないで…自閉症でなければよかった、自閉症が良くなりますようにという祈りは、私の人格が消え、もっと愛せる別の子が私の顔を引き継ぐことを望んでいるかのように感じられる
そういったことが綴られていた。その内容に愕然としたかこは、自身に問いただす。もし、見知らぬ子がたからの体を引き継いで、たからの魂が天に召されるのだとしたら・・・?それは絶対に嫌だ。そう断言できるかこ。
そして、たからのらくがき帳に無数に書かれたあるものを見つけた彼女は・・・ その先は是非、読んでいただきたい。
発達障害に対して正しい理解がある社会とは
本作は漫画の合間に、作者であるかこと発達障害研究の権威である精神科医の対話が挟まれている。この医師が語る内容が大変勉強になる。
例えば、通常なら2歳位で結べる親子関係(母親に甘える、目が会えば微笑む等)が、発達障害児はそれが遅く、小学生以降になってから始まるといった話。 かこは、たからと心の交流が出来ないこと、たからが自分に執着するのも愛着ではなくこだわりに過ぎないことに絶望していた。もし、当時かこがそれを知ることができていたら、また違った未来があったかもしれない。
最近では発達障害の認知度が上がり、漫画家の沖田×華やモデルの栗原類など、著名人が発達障害であることを公表し、個性の一つとしてみなす風潮が出てきた。その一方で「発達」「アスペ」等、素人が安易にかつ馬鹿にするニュアンスで口にすることも増えた。ネットでは彼らが感情を持たない、まるで人間ではないかのような、極端で誤った情報があふれている。発達障害等についての適切な知識、対応の仕方が社会に定着することを望むばかりだ。
最後に~これは、どの家庭にも起こりうる話
本書へは、批判、非難が多いものの、共感の声も多数寄せられている。恐らく同じような苦しみを抱えたり、経験した人々からのものだ。
「本書に気持ち代弁してもらった」「この孤独さが良く分かる」「世間が持つ聖母の様な母親像が辛い」 「親なのに、母親なのに子に愛情が持てなくなる」「子どもといると辛くなる」
…これは何も「障害」だけに関わる話ではない。 たとえ子どもに障害等が無かったとしても、諸事情があって子どもと向き合えなくなることだってある。認めるべきではないのかもしれないが、親と子の相性というものも確かに存在する。 こういった苦しみを抱える親は決して少なくないのだ。 子どもに対して一番に責任を負うのは確かに親だ。世間的には母親だろう。不倫、虐待、育児放棄等は決して許されることではない。
しかし、親が親としての役目を果たせなくなったとき・・・、「ダメな親」「母親失格」等とただただ罵しるだけでは、何も始まらない。
どんな幸せな家庭であったとしても、いつ、どういった理由で崩れてしまうかも分からない・・・。
親が子を受け入れられない、受け入れられなくなることもあるということを前提に、そういった辛さを吐き出せる場所、またそんな家族を支えられる環境がこの先社会で整っていけば・・・そう思うのである。
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