中学校に入ったばかりのある朝だった。「学校に行きたくない」と両親に訴えた事が一度だけあった。学校に行こうとした瞬間、今まで体験したことが無い位強烈に胃が痛んだのだ。原因は今まで徒歩7分の所にある地元の小学校に通っていたのが、バスと電車を乗り継いで一時間以上掛かる私立の中学校に通う様になったことによる疲れ(しかも車酔いしやすかった)、そしてちょっとした人間関係のトラブルだと思う。
痛みを訴える私を前に母は「1日休ませよう」と言ったが、普段は甘い父が「ここで休ませたらそのまま通えなくなる」と主張し、最終的には母に付き添われて渋々登校した。
これが正しかったのかは今となっては全然分からない。結局それ以降は登校前に胃痛に悩まされることは無かったし、なんだかんだと私は中学校3年間は皆勤賞をもらった。
父の言う通り、あの日休んでいたらそのままズルズル休むようになったかもしれないし、そんなことはなく案外翌日にはケロリと登校していたかもしれない。
ただ一つ確実に言えることは、あの時父も母も取り繕ってはいたものの、顔面蒼白で内心はかなり修羅場だっただろうということだ。親になった今だからこそ分かる。昨日まで笑顔で登校していた子どもが突然泣きながら「学校に行きたくない」と訴えてきたらどれほど動揺するか…と。
そういうわけで、今回紹介したいのは小学生の娘が突然不登校になってから再び投稿できるまでの198日を克明に描いたコミックエッセイ『娘が学校に行きません』である。作者は『ママ友がこわい』、『離婚してもいいですか?』の野原広子氏である。
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Contents
あらすじ
漫画家・イラストレーターをしている野原広子は夫が遠方に単身赴任している中で小学校5年生の娘トモと平和に暮らしていた。しかし、ある朝突然トモが『学校に行きたくない』と泣き出す。いつも明るく元気で友達も沢山いるトモ。そん娘が理由も言わずに泣き出している…動揺した広子はトモをとりあえず休ませることを決意。トモも一日休んだことで元気になり寝る前には『明日は学校に行く』と笑顔で宣言した。しかし、翌朝になると再び学校に行くのを嫌がる。広子が理由を尋ねてもトモは語ろうとせず、なだめすかしても登校を拒否し、強引に家を追い出しても帰ってきてしまう。そして、そのままズルズルと”不登校状態”が続いていく…。
『すぐに元通りになるはず!』『いや?もしかしてこれは思っている以上にオオゴトなの!?』
子育て電話相談に頼ってみたり、自由にダラダラさせてみたり、旅行で気分転換させてみたり、ある時は車で強引に学校まで連れて行ってみたり…思いつく限りの試行錯誤を繰り返す広子であったが出口が一向に見えず焦り不安になっていく。しかし、そんな広子とトモに養護教諭や担任教師、校長、小児科医、そして友人達が救いの手を差し伸べる。
…これは”不登校”という暗く深い迷路から抜け出すため、母子がつまづきながらも少しずつ前に進んでいった198日間の記録である。
以下、感想と考察(ネタバレあり)
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一筋縄では行かない不登校問題…リアルな母親の苦悩と心の揺れ
5年生の6月の終わりになって急に学校に行けなくなってしまったトモ。
当初、母である広子は娘の異変を感じながらも少し(一か月半程)休ませれば元気になると考えており、娘であるトモ自身も学校に行かないことに罪悪感と焦りを覚えており、広子に対して毎晩『明日は学校に行く!』と宣言していた。二人とも不登校状態がそんなに長く続くとは思っていなかったのだ。しかし、トモは朝になると登校することに強い恐怖を抱き、それだけでなく高熱や喘息の発作を起こす様になってしまう。…この描写だけで『不登校はただの甘え!』と切り捨てるのがどんなに乱暴で愚かなことなのかが分かるだろう。
『充電させてあげることが大切』…そう思った広子は『早い夏休み』と捉える事にして、トモに自由に好きなことをさせ、夜更かしなどだらけることも認め、目いっぱい優しくしたり自身の体験談を語ったりもしてみせる。しかし、一向に快方に向かう兆しは見えず、むしろトモは夏休み最終日に『学校を辞める』とまで言い出す(小学生でまさかの退学宣言…)。読んでいる方としては「まあ、そう来るだろうな…」と予想がつくのだが、広子の落胆っぷりは深く、『今まで娘のためにとしていたことは全て無駄だったのではないか』と半ばパニックになる。ここのところは絵柄とユーモラスな例えで笑いに変えているが実際のところはもう本当にグチャグチャな気分だったのだろうというのが容易に想像できる。『支えなきゃ、寄り添わなきゃ』という気持ちと『早く元に戻ってほしい、自分も辛い』という本音の間で揺れる苦悩がしっかりと描かれているのだ。
そして夏休み明け、焦る広子に校長が『これからの教室復帰に向けて』の話をする。『来週位に戻れるのでは…』そう期待する広子に校長先生は優しく微笑みながらもこう言うのだ。
「教室復帰への目標ですが…」
娘が学校に行きません 野原広子 68/185
「6年生までに復帰ということで進めましょう」
校長はなんと更に7か月かけて向き合っていく必要があると説いたのだ。
これに既に焦っていた広子は『うちの娘は元気な子だから』と反論するが、そんな広子を校長は優しくも厳しく『馬を水辺に連れて行くことは出来ても水を飲ませることは出来ない』という諺を引用しながら諭し、約束するのだ。
「決してあせらず」
娘が学校に行きません 野原広子 69/185
「あせらずせかさずトモさんの意志を確認しながら全教職員総動員で対応してまいります」
その言葉に納得しかねる広子。しかし、学校はそれを本当に実行して見せるのだ。
学校、養護教諭、担任、小児科医…正しいプロに頼ることの大切さ
正直に述べると、心が汚れちまってる私は本作を読み始めた時は『絶対に担任とかカウンセラーとかママ友とか誰かしら不愉快な事をしてくる人が出て来るに違いない(作者の過去作から勝手に予想)』『特に若い男性の担任なんて絶対にやらかすぞ(辻村深月の『鏡の孤城』を読んだ影響)』と構えてしまっていた。しかし、そんなことは全くなく養護教諭や校長先生を始めとした小学校が”プロ”として広子トモ母子を万全にサポートするのだ。
どうしても昨今は『学校が事態を悪化させた・やらかした』系のネガティブな情報が耳目を集めがちで、ついつい学校に対して不信感を持ちがちである。特に不登校自体、学校が原因で起こることが大半なので親が学校を敵視してしまうことも少なくないだろう。
しかし、トモの通っていた小学校は校長先生、養護教諭が“プロ”として優しく力強く広子とトモに寄り添い、広子に対して『今は背中を押すべきではない』等としっかり指導する。そして、当初はトモに心を閉ざされていた若い男性の担任教師山田先生も少しずつトモの信頼を勝ち取っていく。更にトモを支えるのは彼らだけでなく、他の教員や用務員さんも含めて本当に”全員”で対応していくのだ。この小学校全体の連携プレーが素晴らしく、『ああ、彼らは本当に教育の”プロ”なんだなあ…』と感動してしまった。
特にトモに『生きる喜びを見つけよう』と寄り添う養護教諭、田辺先生の登場は非常に大きく、荒れてしまった部屋を自主的に片づけるなど、トモは少しずつだが確実に変化していく。
また、支えてくれる”プロ”は学校の外にもいた。特に何も期待せずに行った近所の小児科医もトモの現状を知ると親身に1時間掛けて話を聞き、トモがストレスから”起立性調節障害”を起こしていると診断しただけでなく、『学校にも説明する』と学校と連携し、2週間に一度のペースでカウンセリングを開始する。
…この様な感じで学校や近所の小児科医が一丸となってトモを支え見守っていくのだ。誰も意地悪な言動をしてこないし(本当は不快な経験があっても作者が描いていないだけかもしれないが)、強いて言えば広子が最初に頼った電話相談が『無理に学校に行かせたら万が一のことがあるかもしれない』ちょっとキツい言い方をしてきたくらいだ。
トモの不登校の原因は女子グループの中で起きた”順番の仲間外れ”だった。定期的に誰かを仲間外れにしてイジメるアレである。大人からすると『ああ、よくあることだ』『大したことじゃない』『一人だけ酷いイジメを受けたわけじゃないでしょう?』と思ってしまうかもしれない、そんな些細な人間関係のトラブルだ。
しかし、トモの周りの大人は誰一人『そんなことくらいで』とトモを責めることはしなかった。これは本当に素晴らしいことだと思う。カウンセラーも友達が多く誰とでも上手くやっていけるトモについて『誰とでも仲良くできるがゆえに他者のイライラなどの負の感情を受け取ってしまう』と分析し広子が知らなかったトモの一面を指摘する。
小学校が不登校対応の主体となったことを当初は歯がゆく感じる広子だったが、トモと自身を『傷付いた状態で座礁したアザラシとそれを保護したおばさん』と考えて乗り切ることにする。
どんなに親切に一生懸命世話をしようとしたところでしょせん素人ではアザラシの手当も世話も適切に行うことが出来ない。必要なのは水族館からやってきた専門知識持つチームなのだ。
そうユーモラスな例えをすることで小学校を信じトモを託する決意をした広子。学校に任せきりなのではないかと思う人もいるかもしれないが、私はこの学校や小児科医といったプロを信じて従うという姿勢が正しく大切だったのではないかと思う。
もちろん、実際にはこの作者母子の様に行かず、学校の対応に恵まれないケースも沢山あるだろう。しかし、この作品は『プロが適切な指導、措置をしていけば必ずや道が開ける』という希望を示している。そして、そんな助けてくれるプロがちゃんと存在するのだと。
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保健室登校の意義~母子の孤立と生活習慣の乱れを防ぐ
学校の指導の中で特に大きかったのが”保健室登校”である。”保健室登校”という言葉について『なんか不登校の子が学校に再び慣れる様にするため、とりあえず保健室に行く』といったイメージと共に知っている人も多いのではないだろうか。
夏休み明けから保健室登校を始めることになったトモ。広子は一歩前進したことに喜ぶがトモが保健室登校で過ごす時間はせいぜい3~40分が良い所で、それも頻繁に休む。そんな現状に誰よりもトモ自身が苛立ってしまい、『1分や2分保健室に行くことになんの意味があるの!?』と苛立ちを爆発させる。すると、田辺先生は優しくこう答える。
「本当のひきこもりにならないためです」
娘が学校に行きません 野原広子 83/185
「朝起きて1分でも2分でもここに来る それが大事なんです」
「それがなかったらずーっと昼まで寝てTV見て夜寝られなくて
朝起きられなくてしまいに昼夜逆転」
田辺先生は保健室登校の意義を『本当の引きこもりになって生活習慣が乱れない様にするため』と説明する。
不登校というと名前の通り”学校に登校しない”という点ばかり目立つが、子供本人も学校に行けていないことに引け目を持つため学校以外の場所にも行けなくなってしまい、いわゆる”引きこもり”状態になってしまう事が多い。本作のトモも不登校が目立たない夏休みになっても水泳にも夏祭りにも行けない(広子はそんなトモに夏休みを満喫させるために遠方にある自身の実家に帰省する。これはナイス判断で結果的に母子ともに羽を伸ばすことができた)。そして、放っておくとトモは夜更かしをしようとして朝起きるのも遅くなっていた。
保健室登校を始めたことでトモだけでなく、イラストレーターという職業柄引きこもりがちだった広子の生活も改善されていく。
そして、保健室登校は広子とトモの生活習慣を正しただけでなく、孤立を防いだとも言えるだろう。
『子どもが登校拒否』というのは親にとって決して名誉なことではなく、広子も『なんとなく格好悪い』と同じ学校のママ友達に相談することも出来ず、単身赴任中の夫にすら一か月半以上黙っていた。
(これについては『心配性な夫が騒ぎ立てて事態をややこしくするのを避けるため』と説明されているが、後に野原広子氏が離婚していることを考えると、何かしら事情があったのかな…と考えてしまう。)
親にだって世間体はあるから仕方がないとはいえ、“隠す”という行為はどうしても“孤立”を生む。そんな中、保健室登校をすることで母親である広子が養護教諭達に不安を打ち明けたり、トモの一歩前進を喜び合える相手を得たというのは非常に大きかったと思えるのだ。
ビーズ細工に猫…自ら生きがいを見つけたトモはゆっくりと自分の足で立ち上がった
そんな風に母親である広子や学校から温かく見守られたトモは少しずつ活力を取り戻していく。
その中でもキッカケになったのはビーズ細工と猫だろう。
以前ビーズ細工に挑戦した際、トモは癇癪を起こして続かなかったものの、この不登校期間中にじっくり取り組み、どんどん上達していく。その腕前は先生たちにプレゼントしたり、秋の展覧会で大作を発表できるまでに成長する。
そして、『人が怖い』と外出も避けていたトモが唐突に自ら猫を引き取りに行く。猫を飼うことでトモは精神的に安定し、二人っきりだった家庭は明るくなる。このどちらもトモが自ら始めたことで、トモが生きる力を取り戻してきたことの表れで、そして自分自身で変わろうとしている事が良く伝わってくるエピソードだ。
そして、幼馴染のハルくんとの交流が復活したことでトモは少しずつ級友たちともやりとりできるようになっていく。…この幼馴染のハルくんがすごくって、小学校5年生男子ともなると照れや意地が邪魔して中々女子に優しくできないんじゃないかと思うのだが、休み時間の度に保健室に遊びに来たり、時には授業をこっそり抜け出してちょっとしたプレゼントをトモに渡してきたりする…少女漫画の正統派イケメン並みの行動をしてくるのだ。
ハルくんとの交流を経て他の級友たちとも給食を共にしたり、会議室や応接室でリコーダーの練習を出来るようになっていき、しかし時々落ち込み急に学校に行けなくなったりしながらも少しずつ前に進んでいく。
そして、3学期の2日め自分自身でもとまどいながらも、意外とあっさりトモは登校出来てしまうのだ。
しかし、母親である広子はそれからしばらくしてもトモが学校に通えるようになったということにいまひとつ喜びを感じられず、『また元に戻ってがっかりしてしまうのではないか』と構えてしまう。そんな中、学校行事である『6年生を送る会』で6年生を送る5年生の演奏を見るために広子は学校に行くことになる。
そこで久しぶりに校長先生と会った広子はずっと胸に留めていたある疑問をぶつける。
「そのー私の初期対応が悪かったから事をさらに混乱させてしまったのかな…なんて思ったりして」
娘が学校に行きません 野原広子 176/185
すると校長は優しくこう答えるのであった。
「いいんです これでよかったんです」
娘が学校に行きません 野原広子 176/185
「どこをどう通っても通る道だったんですよ」
この言葉に広子は救われる。そして、その後皆と一緒に謳い、肩を組んでスイングするトモを見て、初めてトモが学校に行けるようになったことを実感して号泣するだ。
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最後に…登校拒否時代を『幸せだった』と語るトモ
色々と考えさせられることが多い本作だったが、最後に載せられているあとがきにまた驚かされた。
それは中学生になったトモが『学校に行けなかった頃は幸せだった』と述べているというのだ。
しかし、それは決して今が不幸だから引きこもりたいという意味ではなく、『不登校で保健室登校をしていた時期が皆に支えられた幸せな記憶として残っているから』だという。
“不登校”というもの、あるいは『子供が不登校だった』ということは親からしてみるとどうしてもネガティブなこと…辛く大変だった、周囲から隠したい…といった”封印したい記憶”となりがちだろう。
しかし、周囲の大人から適切なサポートを受けていたトモからすると決してネガティブな記憶ではなく、むしろ自己肯定感を育むことが出来た貴重で温かい体験なのだ。本作もトモが自ら『私のこと描いて』と言ったことがキッカケで出来た作品だという。
そういった意味でも不登校というのは大人が思う程ネガティブなものではなく、その子にとって必要な過程であると言うことができるのではないだろうか。
まとめ~明るくさらりとした作風で希望と理想を示してくれる作品
野原広子氏の『ママ友が怖い』や『離婚してもいいですか』は可愛い絵柄に反して胸が苦しくなるような描写が多かったため、”不登校”というテーマもあって、『イジメとか学校の不適切な対応とか嫌な話が来るんだろうな』等と少々身構えて読み始めた。
しかし、まさしく一進一退な娘の状況にこれまた一喜一憂する母親の気持ちが赤裸々に描かれているが、ユーモラスな発想力を使い乗り切ろうとする作者の穏やかさが伝わって来て読んでいて不快になることは無かった。そして、養護教諭を始めとした小学校の先生達の連携プレーの素晴らしさ、ハル君を始めとした友人達の優しさに心が温かくなった。
不登校の克服までに掛かる期間は早ければ3か月、長ければ数年と聞いた事がある。学校側のサポートがしっかりしていて約半年で克服できた本作は比較的順調に解決したケースだと言えるだろうし『周囲に恵まれたから出来たことで、実際はもっと厳しい』と感じる人も少なくはないだろう。
しかし、『学校や小児科という頼れるプロに指導を仰ぎ、親は息抜きしながら子どもを支えていけばいつか道は開ける』という良い理想像を提示し、保健室登校の意味を分かりやすく説く本作は不登校で悩み苦しむ人達や不登校問題に興味を持つ人達には大変役立つのではないだろうか。
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