【小説】坂の途中の家(前編)【感想・ネタバレ・考察】角田光代が描く裁判員裁判×育児の闇~補充裁判員に選ばれた専業主婦が覗く深淵

坂の途中の家 表紙

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平成21年5月21日…この日付を聞いて何のことだかピンとくる人はまず、いないだろう。これは日本において裁判員制度がスタートした日である。
この制度の成立ち、経緯には色々と能書きがあるものの、要約すると『判例ばかり重視して、国民の心情からかけ離れた判決ばかりを出す裁判所に民意を反映させるべく始められた制度』である。しかし、スタートから10年、未だに国民にとって身近なものではない上、裁判員が苦心して出した一審判決が、高裁で出された判例重視の二審判決でいとも簡単に覆されてしまう等問題点も多く、決して評判は良いと言えない。また、裁判員を務めたことでPTSDを発症した…ということで裁判員経験者が国家賠償請求の訴訟を起こす等、裁判員に選出されることには大きなストレスが伴う。

そんな裁判員制度の実態とそのストレスをリアルに描いた作品がこの角田光代の『坂の途中の家』だ。
平穏な暮らしをしていた子育て中の専業主婦が、子供を殺した母親の刑事裁判の補充裁判員に選ばれ、裁判を通して、被告と自らの境遇を重ねていき、無意識に封印していた心の傷と闇に浸食されて行く心理サスペンスである。以下、あらすじを書いていきたい。

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Contents

あらすじ・ネタバレ

専業主婦の里沙子の元にある日突然、裁判所から封書が届く

33歳の専業主婦の山咲里沙子。彼女は2歳年上でサラリーマンの夫、陽一郎と2歳の娘、文香(あやか)と共に平穏に暮らしており、日々、育児と家事に追われながらもこれといって大きな不満を持ってはいなかった。
しかし、ある日そんな彼女の元に『裁判員候補者に選ばれた』との通知 (呼出状) が裁判所から届く。慌てて問い合わせ窓口に『幼い子どもがいるため裁判員は辞退したい』と電話した里沙子だったが、窓口の担当から『それを理由に辞退することは出来ない』と言われてしまう。しかし、一方で『まだ候補者になっただけで、実際に裁判員に選ばれているわけではない』『裁判の朝に50~100人の候補者が集められ、面談を経て6人の裁判員が選ばれる。面談の際にそういった事情を訴えることは可能』とも言われ、安堵するのであった。

公判1日目~ 補充裁判員に選ばれてしまった里沙子。 食い違う検察と弁護士の陳述に混乱するとともに自身の記憶が蘇り出す…

公判一日目、裁判所に向かった里沙子は事件の概要を聞き、戦慄する。事件の内容は『都内に住む三十代の母親が、故意に水のたまった浴槽に生後八か月の長女を落とし殺害した』という乳幼児の虐待死事件だったのだ。そして、里沙子は補充裁判員に選ばれてしまう。

困惑したまま法廷に向かった里沙子。そして裁判の開始が告げられる。被告人は安藤水穂(みずほ)。
検察官による冒頭陳述
『水穂は長女凜を出産したものの、産後一月もしないうちに出産を後悔する発言をしだした。そして娘が成長するにつれて寝かしつけられない、泣き止まないと娘を避けるようになった。夫、寿士(ひさし)は極力育児を担おうとしたが仕事が忙しい時期にあったため難しく、そんな夫を水穂は詰った。しかし一方で夫が自身の母の協力やファミリーサポートやベビーシッターを提案しても拒否した。そのため土日は夫が娘の世話をして水穂が自由に時間を使えるようにしたが事態は改善されなかった。更に夫が娘の足や尻につねったり叩いたりした跡があることを発見し、問いただしたところ水穂が手を上げたことを認めたため、保健師の訪問を依頼していた』ということが語られる。
検察官は被告人水穂について『新生児、乳児に対して想像以上に手が掛かるという幼稚で自分勝手な理由で早々とネグレクトし、自身の育児能力の無さを長女への憎しみにすり替え、またそれらが外部に露呈することを恐れて義母や支援者の介入を拒否していた』『事件直前まで家事をこなしたり、事件直後も夫と正常に会話できていることから責任能力がある』と主張するのであった。

その内容から里沙子は文香が生後間もなかった頃の不安感を思い出し、水穂に対して同情したものの『少し待てば終わったのに』と水穂の母性本能の薄さを軽蔑するのであった。

しかし、続いて行われた弁護士による冒頭陳述に里沙子は困惑する。
夫、寿士は家庭よりも趣味や友人関係を優先し、水穂に対して怒鳴り散らし暴言を吐く等していたため、水穂は寿士に恐怖し物を言えなかった。しかし、子どもができれば寿士が変わるかもしれないと考えた水穂は仕事を辞め、子どもを持つことを考えた。寿士もそれに賛成し、自身は収入の良い会社に転職した。そして二人の望み通り水穂は妊娠し、出産した。
しかし、出産後、寿士は娘の夜泣きを理由に家を空けがちになり、育児にも気まぐれに携わるに過ぎなかった。そして水穂はそんな寿士に対して当然相談したり頼ったりすることは出来なかった。
加えて、義母や保健師から娘の表情が乏しい、発達が遅いと心無いことを言われ、次第に自信を無くしていき、自身の育児を責められることを恐れて外部に頼れなくなっていった。友人達にそのことを相談し、育児ノイローゼを指摘され、医療機関への受診を考えたものの、夫に責められることを恐れて受診できなかった。
更に事件の一月前、夫、寿士が結婚前に交際していた女性とまだ付き合いがあることを携帯のメールを見て知ってしまった。離婚を切り出されるのではと水穂はより深く思い悩むようになった。
事件当日の記憶はあいまいで、夫が帰ってくるまでに娘の沐浴を済ませなくては、泣き止ませなくてはと考え風呂の用意をしていたが、気が付いたら寿士に娘を殺すつもりかと怒鳴られていた
そう説明する弁護士。検察と弁護士の説明では事件の背景や登場人物たちの人間像が全く異なって見えた里沙子は混乱するも、そのまま公判一日目は終わった。

帰り道、里沙子は自分自身の産後の状態を思い出す。里沙子は母乳の出の悪さに苦しんだ時期があった。『吸わせればちゃんと出てくるはず』『母乳育児の方が脳の発達が良くなる』…周囲のさり気ない言葉で悩んだ。しかし、記憶はもはや曖昧で個別健診で保健師に『赤ちゃんの表情が無い』と言われて泣いていたのが自分だったのか他の母親だったかすら上手く思い出せなかった。

補充裁判員…裁判員が急病等で欠席せざる負えない場合に代わりに裁判員を務めるいわゆる補欠のような立場。しかし、裁判員と共に毎日法廷に出て審理を聞き、書類や証拠を見なければならない。その一方で、他の裁判員の様に審理で証人や被告に質問したり、評決に加わることは出来ない。里沙子は義母にそのことを説明し、裁判が終わるまでは日中、娘の文香を義母に預けることになった。

そして帰宅した夫にもその旨を説明し、裁判のことを話す。夫、陽一郎は里沙子の話を聞いてくれたものの、里沙子の気持ちは落ち着かず、何かと事件のことを考えてしまうのであった。

公判2日目~水穂の住まいの写真を見て動転した水穂は、帰宅後、苛立ちと自己嫌悪に悩まされる

公判2日目の証拠調べで被告の水穂の住まいの写真を見せられた里沙子は既視感を覚える。
今はマンション暮らしだが、貯金していずれは一戸建てを購入するつもりでいた里沙子と夫の陽一郎。そのため里沙子はチラシの建売住宅をチェックしたり、散歩がてらに直接家を見に行くことが何度かあった。水穂の住まいはそういったそれらの家、里沙子が漠然と想像していた理想像によく似た、真新しい洒落たデザインの家であった。そして片付いてはいるもののどこか生々しさを感じさせる室内の様子を写真で見て里沙子は動転してしまう。

2日目が終わり、義父母宅に娘の文香を引き取りに行った里沙子。しかし、文香は帰宅を渋り、義母はそんな文香を泊まらせたいという。『きっと夜中には帰りたいと言い出すから』と里沙子は反対するが、義母が『大丈夫』と言い、文香が愚図るため仕方なしに置いていく。義母の前では平静を保ったものの、自宅へ向かう途中、里沙子は文香を甘やかす義母と、イヤイヤ期を迎えわがままばかりの文香に激しい苛立ちを覚える。そしてやっと気分が落ち着いた頃に義母から『文香が泣き出して止まらないのでやはり家に帰したい』という連絡が来て再び義母宅に向かうことになる。自宅へ戻る途中、苛立ちと疲れから文香に対して冷たい態度を取ってしまう里沙子は『これも虐待なのだろうか』と自問自答するのであった。そして、帰宅後も夫、陽一郎の些細な言動や『裁判員を引き受けたくらいで、ものすごい重大な任務をこなしているみたい』 という発言に怒ってしまい、夫と娘が就寝した後、一人風呂場で自己嫌悪に陥るのであった。

『自分は親になる資格がない』…そう思い悩んだ妊娠初期、夫と義母は里沙子がマタニティーブルーだと思い何かと気遣ってくれたが、その本心を2人に打ち明けることは出来なかった。出産直前からその悩みは無くなったものの、今日の様なときは再び思い悩んでしまう里沙子。そして今もママ友はいるもののその場限りの会話ばかりでやはり本心を打ち明ける相手はいない。妊娠を機に仕事を辞めなければ良かったと思う一方、自身のキャパシティの無さを思い、仕事と育児の両立なんて無理だと、また落ち込んでいくのであった。

公判3日目~被告人水穂の夫、寿士の証言を聞いた里沙子は自身と夫、陽一郎の関係について考える

公判3日目、被告人水穂の夫、寿士が証言台に立った。里沙子の予想に反して、水穂に対しての怒りは見せず、ただ憔悴している様子の寿士。しかし、里沙子は彼のキッチリとアイロンがかけられたハンカチ等を見て、『順風満帆な人生…親の愛情に恵まれ、友人に囲まれ、大きな挫折や絶望に直面したことのない人物』といった印象を持った。
概ね検察側の主張と同じ証言をする寿士は『水穂の勧めで社内で部署異動して、多忙で平日の育児参加は難しかったものの、土日等は可能な限り積極的に育児に関わったこと』『水穂が実親と折り合いが悪かったため、自身の母親に支援を求めたが、考え方が合わないと水穂が拒絶したため、母にはもう家に来ないように伝えたこと』『水穂が一度健診で保健師に言われた言葉がきっかけで次第に長女、凜について発育が遅いと気にする様になったが、自身が病院や保健所で医師や保健師に確認すると『そのようなことはない』と回答されるため、水穂が育児ノイローゼになっていると疑い、より水穂が息抜きできるように努力した』と語った。結婚生活についても『喧嘩をすることはあったものの、暴言を吐いたり怒鳴ったりはしていない』『妊娠・出産にあたって仕事を辞めるように強いたりはしていない』と証言する。

しかし、『「産むのではなかった」と繰り返すばかりの水穂の発言に、子どもが大きくなって言葉を理解できるようになったときのことを心配した』という寿士の発言に、『妻が子育てに前向きになることよりも、子どもが大人の否定的は発言を理解することの方を重大視している』と里沙子は違和感を覚えるが、違和感の正体が何なのかよく分からなかった。

そして、水穂と育児をめぐって口論した際に、寿士は『水穂と彼女の両親の関係』について持ち出したことを認める。水穂は両親との関係が悪さを理由に産後も連絡を取っていなかったが、寿士はそれはおかしいと水穂に言ったのであったが、弁護側が主張しているように、水穂に対して、『親とうまくやれない人間が親になれるはずがない』『水穂も成長した子どもに嫌われるに決まっている』とは言っていないと寿士は主張した

しかし、寿士が水穂や育児の相談をかつての交際相手、穂高真琴にしていたことが明らかになり、里沙子や他の裁判員達の関心はそちらに向かっていく。真琴とは水穂と結婚する4年も前に別れており、やましい関係では無かったことを主張する寿士。携帯でのやりとりを盗み見た水穂が浮気を疑ったことについても誤解だという。
そして、裁判員達の要望もあり、寿士とその元交際相手真琴のメールの内容が明かされるがそこに男女の関係が匂うようなものは何もなかった。しかし里沙子はそこに『暗号めいた何か』『寿士と真琴の信頼関係の強さ』が感じ取れるのではないかと疑ってしまう。

その後、寿士の元交際相手の穂高真琴本人が証言台に立った。いかにも常識人といった出で立ちで結婚し二児の母でもある彼女は仕事もしている。『寿士から育児の相談を当初は電話で受けていたものの、内容が深刻であったため直接会うことも増えた。寿士の話を通し、水穂に対して几帳面すぎて追い込まれているという印象を受け、寿士にはよく話を聞いてあげるようアドバイスをし、また水穂が凜に手を上げたと聞いた際には保健師に訪問してもらうように言った』『男女の関係はない』と証言する。
そして、多くの情報を得て裁判員達が混乱する中、公判3日目は幕を閉じたのであった。

義父母宅へ娘を迎えに行く途中、里沙子は自身もまた妊娠中、不安定な時期に夫、陽一郎の携帯のメールを盗み見たことがあることを思い出す。
結婚初期から帰宅時間について里沙子に告げることをしなかった陽一郎。妊娠して不安定になった里沙子は陽一郎に帰宅時間を事前に教えて欲しいと頼んだものの、それは出来ないと一蹴された。そして、里沙子は根拠もなく何故か『陽一郎は昔の交際相手と浮気をしている』という妄想に憑りつかれて、彼の携帯を盗み見てしまったのだ。結果、浮気の証拠は無かったものの、陽一郎にそのことがバレ、帰宅時間を教えてもらえるようになったものの、『こういうことをして恥ずかしくないのか』と言われ、自己嫌悪に陥るという苦い経験をしたのだ。
そのため、夫を疑い、携帯を盗み見て悪い方向へ妄想をしていってしまった水穂の気持ちが里沙子には痛いほど分かるのだ。

娘、文香を連れて自宅に戻った里沙子。歯磨きを嫌がり強烈な駄々をこね始めた文香にウンザリしつつもなんとか寝かしつけ、帰宅時間を告げずに遅く帰ってきた陽一郎に苛立ちを持っていたものの、それを表に出さずに陽一郎の機嫌を損ねることがないよう、上手く立ち回る。

陽一郎が眠ったあと里沙子は考える。もし男女の関係が無かったのだとしても、自身のことについて寿士が元交際相手の真琴に相談していたと知ったら水穂のプライドが酷く傷ついたのではないかと。そして、里沙子はそこから自身と陽一郎の関係について思いを馳せる。

友人から誘われた飲み会で陽一郎と出会った里沙子。『曇りのない人』『人間関係に恵まれ愛されて育った人』…そう感じた里沙子は今まで結婚願望が無かったにもかかわらず『こういう人とならば結婚しても良い』と思えたのであった。
喧嘩をすることはあったものの、順調に二人は交際を続けていった。
義父母宅に招待された際、里沙子は義父母から歓迎される。しかし、陽一郎一家の絆の深さ、義母の陽一郎への愛情の深さ、陽一郎が遠慮なく両親に甘える様子に、実親との関係が良くなかった里沙子は羨ましさと得体のしれない後ろめたさを感じた。しかし、そんな微妙な気持ちも陽一郎にプロポーズされると幸福感から吹き飛び、会ったことのない陽一郎の過去の交際相手に対しても優越感を持っていた。しかし、今となっては、その頃の幸福感は里沙子自身も気付かないくらいの緩やかさで少しずつ消えていったことに気付くのであった。

公判4日目~被告人水穂の姑の証言を通して、自身の義母の無神経な言動を思い出していく里沙子…そして夫、陽一郎との間に起こるトラブル

公判4日目は水穂の姑、安藤邦枝が証言台に立った。概ね息子である寿士と同じ主張をし『産後、水穂と凜の元へ通った際は世代による育児や家事のやり方が違いがあることを意識し水穂の意に添うようにした。あまりテレビを見せない方が良い、もっと抱っこした方が良い等軽い助言はしたことはあるが基本的に口出しはしなかった。水穂は産後うつ等、精神的に追い詰められている様子はなく、テレビを見て笑っていたり普通に会話をしていた。水穂は異様にプライドが高く、それゆえに思い通りにならない凜を殺した』…そう孫を殺された悲しみ、そして水穂への怒りを隠さない邦枝に里沙子は当初同情する。

しかし、弁護側の反対尋問で邦枝が、凜の夜泣きが一番ひどい時期に息子である寿士に家に帰らず外泊するように勧めたことが明らかになると、里沙子は一転して邦枝に嫌悪感を持った。
『嫁の水穂は専業主婦なのに、何故一家の大黒柱である息子、寿士が子育てに協力しなければならないか』…そう考えている邦枝。そもそも、寿士が転職し、その後更に忙しい部署に異動したのも、水穂自身がそうするように寿士に言ったためだという。そして、結婚当初から寿士より年上でやや暗い印象の水穂を気に入らなかった様子の邦枝は、寿士よりも給料が高かったことで、水穂は寿士の職場や稼ぎを見下す言動を度々していたと主張する。
寿士が外泊したのは実際に忙しく、母である自分の助言に従っただけで残業を言い訳にして子供の世話から逃げた訳では断じてないと言った。

『嘘は言っていないかもしれないが、息子である寿士が不利にならないように発言している』…そう邦枝の言動から感じる里沙子。水穂に対し、『夫である寿士にあまり心配をかけないように。寿士に何かあったら水穂も娘の凜も大変なことになる』と言ったことを認める邦枝。しかし、里沙子は邦枝が水穂に対して『養われている分際で』といったニュアンスのことを言ったのではと疑うのであった。

休憩後、裁判員達からの質問に対して邦枝は『息子の寿士に対して、子どものことはきちんと考えているのか聞いたことはあるが、子作りを強要したことはない』『自分が子育てに対して口出しすると水穂は『世代の違い』を持ち出して反発するから、寿士に同世代の人に相談した方が良いとアドバイスした』と答え、『同世代の母親の声を聞けば、水穂も子育てが道楽ではなく、母親たちが皆一様に苦労していることが分かると思ったのだ』と語り、泣き出してしまう。
そんな邦枝の姿を見て、里沙子は『この人は間違っていない』と思いながらも『邦枝が水穂を追い詰めたのではないか』と考えるのであった。

そして里沙子は自身が母乳のことで義母から追い詰められたことがあることを思い出す。
『赤ん坊に吸わせておけば、おっぱいなんて出るようになる』
母乳の出が良くなかった里沙子。そんな彼女にそう言ったのは保健師でも講師でもなく義母であった。里沙子の母乳の出を心配した義母は母乳に良いとされるサプリメントや漢方を宅配で送りつけ、電話で毎日のように母乳が出るようになったか確認してきたのだ。双方の負担になるからやめるように言って欲しい…そう夫、陽一郎に里沙子は言うも、陽一郎は里沙子の心労を理解せず『お節介なだけだからもらっておけばいい』と答えるだけであった。里沙子はこっそりサプリメントや漢方を処分し、粉ミルクに切り替えたことを義母に内緒にしていた。

義母の行為を無下にしたことに罪悪感を抱いていた里沙子。しかし、今思い返すと、母親の無神経さに気付かず、庇うような言動をし、また里沙子のために気を回うすことをしない夫、陽一郎と義母の間にある”連帯感”にずっと不快さを感じ続けていることに気付く。そして、その”連帯感”こそが公判中に寿士と邦枝に対して感じた不快感の正体であったのだ。以前、平日午前中に里沙子が熱を出して寝込んだ際、そのことを電話口で知った義母は『ごはんを作りに行く』と言った。しかし、義母の言う”ごはん”とは陽一郎の晩御飯のことであった。さり気なく、しかし当然の様に普段から陽一郎第一に動く義母の言動にとっくに慣れたつもりでいたが、それでも都度動揺していたことを里沙子を今更ながら自覚したのであった。義父母宅へ寄ると、ほぼ必ず義母は『夕飯のおかずに』と手料理をタッパーで持たせてくれるが、それは陽一郎の好みや栄養を考えてくれているものの、持って帰ることになる里沙子の負担をあまり考慮していない重さである。

里沙子はそんなことを考えつつ、娘の文香を義父母宅へ迎えに行き、自宅へ帰るが、事件が起こる。夜道を歩きながら義母の重い手料理を持ち運ぶ里沙子は、途中愚図り癇癪を起し始めた文香に手を焼き、わざと置いていく。そして、先の角で姿を隠し、文香の様子を伺っていたのだが、それを帰宅途中の夫、陽一郎に見られてしまうのであった。
慌てて事情を説明した里沙子。しかし、夫の陽一郎は『夜道に里沙子が文香を置き去りにした』ということに呆れ怒り、目を離していた訳では無かったと言う里沙子に対し、こう辛辣に言い放つ。

「スーパーやパチンコ屋で、子どもが連れ去られていなくなる事件があるけど、その親もきっとそう思ってるんだろうな」

坂の途中の家 角田光代 189/424

『親がすぐそばにいて目を離していないつもりでも、ほんの数秒の間に連れ去られてしまうこともある』…そう憤る陽一郎。里沙子は分かってもらおうと説明しようとするが、陽一郎は今日はもう遅いからと文香を風呂に入れるために去っていく。そして文香を寝かしつけた後、里沙子に『裁判員を降りたらどうか』と提案するのであった。

陽一郎の言葉に驚き唖然とする里沙子。しかし、陽一郎はそんな里沙子に『裁判員は裁判員でも里沙子が補欠の立場であり、無理してがんばる必要はない』と言う。
(注.里沙子は補充裁判員の立場で、補充裁判員は審理に参加するものの、裁判員に欠員が出ない限り被告や証人に直接質問は出来ず、評決にも加われない。また、負担を考慮され、これ以上必要がないと判断された場合は審理の途中であっても解任されることがある。)
皆やっていることだし、審理の内容だってきちんと出来ている。文香の送迎だってきちんとこなしている…そう反論する里沙子に陽一郎はなおも言う。

「みんながやっていることができないと認めることは、べつに恥ずかしいことじゃないよ。そんなふうにして無理に能力以上のことをしようとして、取り返しのつかないことが起きたらどうするの。きみが思っているよりずっと深刻なことだよ」

坂の途中の家 角田光代 193/424

陽一郎は里沙子が裁判の影響、そしてキャパシティオーバーでで里沙子が少しおかしくなっていると考えている様だった。里沙子はそれは勘違いであると陽一郎を説得したかったがそれは叶わなかった。
自分は間違っていない…そう思う一方で陽一郎の言う通り、能力以上のことをこなそうとして”大事なもの”を壊そうとしているのかもしれないと混乱する。里沙子は不安を紛らわすために友人の本澤南美に裁判員に選ばれてしまったことと、その不安を書いたメールを送信するのであった。

以下、感想と考察

裁判を通して自身の産前産後の様子を思い出していく描写が非常にリアル

産前産後の出来事は慌ただしかったり寝不足だったり、ホルモンの影響なのか頭がボケていたり…と今一つ思い出せないことが沢山ある。そして忙しすぎて、疲れすぎてて嫌なことがあっても逐一怒っている暇がない。
なんかこういうこと言われた気がする…と思ってもそれが誰にいつ言われたのか判然としない。何となく流してしまう。 しかし、子どもがある程度大きくなってから、ふとした瞬間に思い出して『あ、あのときそういやムカついたな』となることが結構ある。

2017年の『ユニ・チャーム、ムーニーCM炎上事件』なんてまさにその典型だったと思う。私の周辺だけかもしれないが、乳児の育児真っ最中の人よりも、子どもがある程度大きくなっている女性の方がこのCMに怒り狂っていたイメージがある。多分、自身のことを振り返る余裕があるから。生後半年くらいの乳児を抱えていた私自身も当時は『このCMそんなに怒るほどかな…』と思っていたのだが、最近になって『いや、あのCM酷いわ、無いわー』と思うから不思議だ。

そのため、作中、主人公の里沙子が裁判を通して自身の産前産後の記憶を取り戻していく様が非常にリアルに感じられる。特に、母乳のことで義母が自身を追い詰めてきていたことを思い出すシーンはゾッとする。この件に限らず他の色々な件についても、産後上手いこと生活をしていくため、里沙子は自身の記憶や感情にフタをしていたのだろう。それが裁判員裁判で水穂のことを考えていくうちに開けてしまうのだ。角田光代の、この展開の持っていき方は非常に上手いと思う。

というより、日本の母乳信仰、本当に何なんだ。私自身一度ものすごい母乳信者(同じくらいの子どもを持つ母親)に出会い、母乳の出の良さを褒められたが、嬉しいどころか正直ちょっと気持ち悪かった。WHOが母乳を勧奨してる!とか言ってるけど、WHOはインフラが整っておらず清潔な水が確保できない発展途上国に向けて『汚い水で粉ミルク溶かすよりは母乳飲ませた方が安全やで』って言っているだけだ。WHOとかユニセフだとかの横文字に踊らされていないで『誰が何故、どんな人に向けて作ったものか』をちゃんと確認したうえで”10ヶ条”を読め。初乳に免疫効果がある…とかはまあ、受け入れられるけど、『母乳で育った方が脳の発達が…』『親子の愛情が…』みたいなのは水素水並みにうさん臭いと思っている。というか私自身は粉ミルクで育てられたが、真っ当に生きてるぞ。
ただでさえ育児はナーバスになりやすいのだから、この手の似非科学(帝王切開だと愛情が芽生えないとか)で親の不安をあおるのは本当にやめて欲しい。

裁判の負担と変容する里沙子の精神と環境~
裁判の結果は?そして里沙子は…

2017年に裁判員経験者に行ったアンケートでは9割以上が『良い経験』であったと回答しているようだが、裁判員の精神的な負担は大きいだろう。5日前後とはいえ、日常から切り離され、普段と異なる頭の使い方をするのは相当疲労する。そして、審理の内容が自身に身近なものであった場合、里沙子の様に自身の人生経験を思い返し、考え込んでしまうのは当然のことだろう。

里沙子は今まで自身の生活において大きな不満を感じていなかった。時に2歳の娘、文香のイヤイヤ期に辟易し、夫、陽一郎の無神経な発言に苛つき、義母のお節介にうんざりすることはあっても、それらは基本的に流してこれた。というより、深く考えないでやって来たのだ。しかし、裁判をきっかけに自身の娘への愛情、接し方に自信を無くし、夫と義母に対して不信感を持ち始めて行く。

そして娘にも冷たく接してしまったり、夫、陽一郎との間に諍いが生まれる等、今まで無かったようなことが起こっていく。果たしてどこまでが裁判の影響なのか…里沙子自身も分からなくなっていく。

確かに、里沙子と被告人の水穂には共通項がある。年齢も近く、同じく女児を出産。働いていたが辞めて専業主婦になった。そして、共に実親との関係が良くない。しかし、当然だが、里沙子と水穂は全く別の人間で、知り合いでもなんでもない。里沙子が水穂に抱く人間像が正しいか否かも分からない。そして、里沙子は水穂の夫、寿士とその母、邦枝の関係と自身の夫、陽一郎と義母の関係を同一視し、片方に感じた不快さや怒りをもう一方にも感じる様になっている。だが、果たしてその二つは同じものなのだろうか?裁判という非日常の中で、確実に里沙子は自身と水穂のことを区別出来なくなってきている。

公判4日目を終えた里沙子。審理は後半に向かっていき、判決の時は近づいてくる。果たして水穂に下される判決は。そして裁判員裁判を通して里沙子は何を見出すのか…続きは後半の記事で書いていきたい。

後半の記事はこちら→【小説】坂の途中の家(後編)【感想・ネタバレ・考察】被告人水穂を自身と重ね合わせていく里沙子~ラスト・結末後の里沙子の行く末を考える

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