【小説】坂の途中の家(後編)【感想・ネタバレ・考察】被告人水穂を自身と重ね合わせていく里沙子~ラスト・結末後の里沙子の行く末を考える

坂の途中の家 表紙

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33歳の専業主婦の山咲里沙子はサラリーマンの夫、陽一郎と2歳の娘、文香(あやか)との生活に、これといって大きな不満を持つことなく、平穏に暮らしていた。しかし、ある日突然、生後8か月の娘を浴槽の中に沈めて殺害した安藤水穂の裁判の補充裁判員に選出されてしまう。
検察側と弁護側の食い違う主張、水穂の夫や姑の証言…。里沙子はこれらに混乱しながらも、裁判を通して自身の境遇を振り返り、無意識に封じ込めていた産前産後の不快な記憶を思い出し、結婚生活の不満に気付いてしまう。そして、自身の子どもへの愛情に疑問を持ち、夫や義母への不信感を募らせていくのであった…。

前編の記事はこちら→【小説】坂の途中の家(前編)【感想・ネタバレ・考察】角田光代が描く裁判員裁判×育児の闇~補充裁判員に選ばれた専業主婦が覗く深淵

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Contents

あらすじ・ネタバレ

公判5日目と週末~自身に劣等感を持ち始める里沙子

昨日、夜道で愚図る娘の文香に対して置いていくフリをした里沙子。しかし、その現場を帰宅途中の夫、陽一郎に見られてしまう。普段はそんなことをしていなかったにも関わらず、陽一郎は『毎日あんなことをやっているのか』『スーパーやパチンコで子どもを放置する親と大差ない。子どもは一瞬で連れ去られる』と里沙子のことを厳しく咎める。自分の話を聞かず、一方的に正論を言い続け『心理的な負担になる裁判員を辞退した方が良いのではないか』とさえ言い出した陽一郎に苛立つ里沙子は、自分は間違っていないと思う一方で裁判に参加して以降の自分の行動が正常か否か判断ができず、自信を無くしていた。

公判5日目、金曜日の朝、陽一郎は昨晩と打って変わって穏やかな態度を見せ、里沙子は一安心する。しかし、義父母の元に娘を預けに行くと、今日は公判後義、家族3人で義父母宅に泊まってゆっくりしていくようにと誘われる。陽一郎は義母に『里沙子が慣れない役目で参っているから泊まらせて休ませてほしい』と頼んでいたのだ。里沙子はそれに動揺を隠しつつ、後で連絡すると言い、裁判所に向かう。

里沙子は陽一郎が昨晩のことを義母に『言いつけた』と考え、どのように義母に伝えたかを想像するが、悪口の様な言われ方をしたのではないか…等ネガティブな方向にばかり考えがいく。そして、被告人の水穂のことに思いを馳せる。水穂の夫、寿士は自身の母親に『妻である水穂が参っているみたいだから家事と育児を手伝って欲しい』と自身の母に頼んだという。しかし、母親本人が頑張って努力をしていた時に、些細なミスを見咎められて勝手に夫が姑にサポートを頼んだのだとしたら、そのこと自体に傷付き、大いに自信を無くすのではないか…そう里沙子は気付くのであった。

その日の審理は、死亡した水穂の長女、凜の遺体の様子が焦点となった。以前、寿士が痣を発見したというものの、死亡時には凜の身体には外傷がなかったという。『そもそも本当に叩いたり、つねった跡があったのか、夫の寿士が虫刺されやかぶれ等を勘違いしたのではないか』と発言した里沙子。しかし、他の裁判員達から同意を得られず、自分が馬鹿で能力が劣っているのではないかと不安になってしまうのであった。そして、予定されていた水穂の友人への証人尋問が、友人の体調不良により叶わなくなったため、午後1時過ぎに5日目の公判は解散となったのであった。

解散後、里沙子は夫と義母の提案通り、義父母宅に泊まるべきか否か悩む。義母に会い誤解を解いた方が良いと考えつつも拒否感が勝り、里沙子は自身は泊まらないと陽一郎にメールをするのであった。すると夫からではなく、義母から陽一郎も義父母宅に泊まるため、独身気分になってゆっくり羽を伸ばすようにとのメールが来る。久々に娘や夫から離れ、一人の時間を持った里沙子。コンビニで夕食を買うと、その身軽さと開放感に驚く。そして昨晩、近況をメールした友人の本澤南美からの返信を確認し、自身が落ち込んでいること、可能ならば会いたいことを更にメールで告げるのであった。

翌日、土曜日の朝、里沙子は友人の南美から電話を受ける。仕事のため、会うことは出来ないという南美の言葉に里沙子は落胆するものの、少しの間言葉を交わす。メールの文面から里沙子が何か落ち込んでいると心配したという南美。『里沙子が自信を無くしている』『些細なことで謝る様になっていて、どこかおかしい』と指摘する。そんな南美に里沙子は二日前の夜に夫、陽一郎に誤解されてしまったことを相談する。これが原因で離婚に発展するかもしれないとまで思い悩む里沙子に対し、笑い飛ばして見せ、『陽一郎も今頃言い過ぎたと反省しているはず』と言う。南美との電話で里沙子は前向きになった。

しかし、直後に義母から『今日は来られるか?』と焼き肉に誘うメールを受け取り、『陽一郎と義母の誤解がまだ解けていない』と考え、再びうんざりするのであった。

その後、義父母宅に行った里沙子は皆と共に焼き肉を食べ、文香を寝かしつけると、自ら二日前の夜に起きたことを説明する。里沙子の話に義母はぎょっとした顔を見せるも、里沙子の『意地悪で文香を置き去りにした訳では無い』という言葉に曖昧に同意する。義父も居心地悪そうに頷くが、肝心の夫、陽一郎は何も言わなかった。そのため、誤解が解けたか否か判断が付かなかった里沙子は『陽一郎は誤解したため、自分と文香を2人きりにしないために義父母宅に泊まらせようとしたのだろうが、心配するようなことは何もない』と断言するのであった。
そして、就寝する前に改めて陽一郎に誤解は解けたかと尋ねた里沙子。陽一郎は分かったと言いつつも、夜の人目のないところでああいうことはしないで欲しいと答えた。その言葉に、里沙子は自分もやり過ぎたと思い、そのまま眠るのであった。

日曜日の午後、里沙子は陽一郎と文香と買い物を済ませて自宅に戻ってきた。しかし、『かんたんな料理』と言って自分が作るわけでも献立を考えるわけでもなく食料をかごに詰めていく陽一郎に苛立ち、それでいて何かに怯えたように些細な所で陽一郎の機嫌を取ろうとしている自分に気付く。やはり裁判の荷が重くて自分がおかしくなっていると思う一方で、裁判が終われば本当に何もかも元通りになるのかという不安を里沙子は抱き始めるのであった。

公判6日目①~被告人水穂の友人有美枝の証言…自身の認識と他の裁判官の認識の違いを感じ、焦る里沙子

公判6日目月曜日。金曜日に体調不良で来られなかった、水穂の友人、紀谷有美枝(きたにゆみえ)が証言台に立った。地味だが清潔な魅力がある有美枝は水穂の高校の同級生であり、共に大学から上京したことと、気が合ったため交流が続いていたという。有美枝は水穂のことを『まじめで芯が強く、前向きな人間』と語った。そして、水穂と夫、寿士の結婚生活が上手く行っていなかったことを主に証言していく。

結婚当初から水穂は家事と仕事の両立に悩んでいたという。寿士は水穂より早く帰宅するにも関わらず家事を率先してこなすことはなく、コンビニで自分の食事だけ買って済ませてしまう。共に食事をすることも無い結婚生活の意味があるとは思えなかった水穂。いつかは子供が欲しいと考えるものの、そのためには自分が転職するか仕事を辞めるかしないと不可能だと考える一方で寿士の給料が低いこともあり、悩んでいる様であった。そして、寿士は水穂が何か提案すると不機嫌になり、男言葉で大声を出し、物に当たったり、数日間無視してくるため、怖くて何も言えなくなると言っていた。

そして、水穂が妊娠して仕事を辞めた後、有美枝は水穂から家に遊びに来ないかと誘われ、水穂と寿士が購入したばかりの戸建てに遊びに行った。その時の水穂の印象を有美枝は『幸せそうに見えてどこかアンバランスに見えた』と語る。
念願のマイホームを手にし、夫も給料の良い会社に転職し、妊娠したうえ子供は望んだ女の子。そんな風に水穂が思い描いたとおりに何もかも進んでいるはずなのに、水穂が極度に自信を無くしているように思えたのだという。そして、有美枝のその言葉を聞いた傍聴席の里沙子は動揺する。

自分が良い母親になれるか分からない、家事をこなせるか分からない等、ネガティブなことばかり話し続けた水穂。今までの水穂の前向きさからは考えられない発言であった。その一方で生まれてくる娘にバレエを習わせたいと語ったりもするので、ただのマタニティーブルーだろうかと考えたという有美枝。しかし、寿士が帰ってくる前に有美枝が帰ろうとすると水穂が脅えたように引き留めてきたため、心配になった有美枝は夕飯も水穂の家で食べていくことにした。

その後、帰宅した寿士は有美枝がいることに驚いたものの、終始穏やかな態度で、夕飯がデリバリーのピザの残りでも怒ることはなかった。そして3人で穏やかに話をしたものの、有美枝は上手く言葉にできない不安感、不快感を覚えたという。水穂も寿士も普通に話していたはずだった。声を荒げたり喧嘩もしていない。それなのに何故か、『二人にしか分からない方法で互いを攻撃し合っている』様に有美枝には見えたという。一見穏やかに話し、笑いながら第三者の目の前で互いに相手を罵り優位性を誇示しようとしている…二人のやりとりからそんな印象を受けた有美枝は居心地の悪さを感じ、二人に引き留められながらも帰った。そして帰り道、有美枝は水穂が自信を無くしているのは、夫寿士の言葉の裏にある嘲りや非難にさらされ続けた結果ではないかと考えたという。
そしてまたしても里沙子は有美枝の発言に上手く言えない衝撃を受けるのであった。

そして、出産後しばらくは水穂から有美枝に連絡が無かったものの、娘が生後4か月になった頃に育児が思ったより大変だと言うメールを受けた。そしてその後、寿士から育児で悩んでいる水穂の話を聞いてやって欲しいという連絡を受けたという。有美枝は寿士が『水穂は一生懸命育児をしているはずなのに、出来ていないと責めたいがために自分と話せと言っているのではないか』と疑い断ったという。
しかし、その後更に寿士から『水穂が赤ん坊を虐待している』と連絡を受けたため、寿士の言葉を疑いつつ、有美枝は水穂に会った。自分の子が他の子に比べて小さい、劣っている、笑わない、そしていい母親になれないとネガティブなことばかり延々と語り続ける水穂は前よりも自信を無くしている様であった。そして、その後メールを送っても返信が来ず、またメールを送ろうとしたところで事件が起きたことを知らされたのだと語った。

有美枝が一通り証言を終えると、検察側の尋問が始まる。検察が『水穂が派手でブランドもの好きのプライドが高い女』というストーリーにしようとしていることを感じ取る里沙子。証人の有美枝もそれを察したようで、水穂が特別ブランドを好んだり、金遣いが荒かったといったことはなかったと述べる。
そんな有美枝を見ながら里沙子は、水穂と有美枝は実際にどれくらい親しかったのだろうかと考える。仮に親しかったからと言って、友人に全てを打ち明けるとは限らないと思うからだ。里沙子は自分とその友人南美の関係について考える。土曜日の電話の後、メールのやりとりをした二人。南美は自信を無くしている様子の里沙子を心配している内容のメールを送ってきた。そして、里沙子は本当は夫の誤解が完全に解けていないかもしれないという不安と不満をメールで告げようとしたが、思い直して『大丈夫、誤解が解けた』という明るさを装ったメールを送ったのだ。
未婚で子どももいない有美枝は自分では力になれないと考え、水穂に結婚して子供がいる高校の同級生の連絡先を水穂に伝え、相談するように促したという。しかし、その同級生は水穂の不安を煽るような発言をしたのか、水穂は余計落ち込んでしまったため、有美枝は後悔していると述べた。

昼の休憩の時間になり、弁当を食べながら裁判員達は互いの感想を述べあう。有美枝は水穂も寿士から一方的に言われっぱなしであった訳ではなく、言い返していたと言う。しかし、里沙子は本当に水穂と寿士の関係が対等だったのかと疑問に思い、皆にそう述べるが反応はまちまちであった。
そして更に里沙子は検察が水穂を派手好きなプライドの高い女と決めつけている事への疑問を呈するが、他の裁判員の反応から、自分だけ見えているものが違うのではないかと不安になる。
『前向きだったが人に甘えたり言い返すことが苦手で、保健師や義母に何か言われても反論できず、自分の子どもが劣っていると追い詰められていった母親。夫に相談しても罵りともからかいともとれる言葉で返され心を通わすことができなかった哀れな女性
ブランド物の服を着た負けん気の強い女性。夫の稼ぎが悪いと非難して転職までさせて、子どももブランド品の一種だと思っているがゆえに、自分の娘が他の子よりも劣っていることが許せなかった女性
自分は前者の様に感じているが、他の裁判員達は後者のように感じているのだろうか?だとしたらやはり自分が間違っているのだろうか…そう里沙子は焦るのであった。

公判6日目②~被告人水穂の母親、安田則子の証言…自身の母親に似た則子に嫌悪感を覚える里沙子

休憩が終わり午後になると、今度は水穂の実母、安田則子の証言が始まった。沈鬱な面持ちであるものの、寿士の母、邦枝(くにえ)程憔悴しておらず、美容院に行ったばかりの様にセットされた髪や、花柄のツーピースといった華やかな出で立ちの則子に、里沙子は何とも言えない奇妙さを感じる。則子は以下の様に証言をする。

厳しい父親、弘道と折り合いが悪かった水穂は大学進学を機に実家のある岐阜を飛び出し上京。それ以降、ほとんど地元に戻ってくることはなく、母親である則子とも疎遠になっていた。寿士と結婚することも、電話で母親である則子に伝えただけで、結納や結婚式が行われた訳では無く、則子が一度東京に赴き、水穂と寿士の3人でホテルの喫茶店で会っただけであった。水穂の夫となる寿士に対しては優しく快活そうだというイメージを持ったものの、スポーツショップでアルバイトの様な仕事をしているということから経済的な面を心配していたという。岐阜に戻った則子が水穂に電話で『結納も結婚式もやらないのは同棲と変わりがない』と咎めると、しばらく水穂は携帯電話にも固定電話にも出てくれなくなってしまった。また、頭の固い夫、弘道には水穂の結婚相手はコンピューター関係の仕事をしている』と偽って教えた。それは寿士の不安定さに不満を持った夫が、娘の結婚に口出しし、破談になることを恐れたためだという。
そして次に水穂から電話を受けた時には、既に水穂は寿士と籍を入れていた。しかし、二人の住まいが駅から離れた築年数の経ったマンションで、また水穂が働き続けていることを知った則子は、自身が専業主婦であったこともあり、娘夫婦の生活の金銭面を心配したのであった。

そして、水穂自身が『子どもは欲しいが経済的にやって行けるか不安だ』といったこともあり、則子は自身のへそくりから三十万、そして凜が生まれてから出産祝いとして十万送ったという。凜のことは生まれてから電話で知らされ、そのことにショックを受けたものの、則子は喜び『会いたい、手伝いたい』と水穂に告げるが、『育児に忙しくて相手をできる状態ではない』『義母が手伝いに来てくれているから大丈夫』と返されたため、水穂に余裕ができた頃に赤ん坊に会いに行こうと考えていた。また、この時の電話で『寿士が転職し給料が上がり、水穂は専業主婦になったこと』『建売住宅を購入したこと』も告げられたため、則子は娘の人生が安泰であると安心したのだった。そして、その後何度か電話のやりとりをした際も、水穂は不満を言うことはなく『子供の発育が順調』『義母も親切で夫もよく手伝ってくれる』と則子に語っていたのだ。則子はその話を疑うこともせず、水穂が母親になったことで自分達の関係が改善されることを期待していたという。

『全て自分が悪かった』そう語る則子。水穂は母親である自分に心配をかけまいと気遣って愚痴や不平を言えなかったのだと考えているという。『押しかけてでも様子を見に会いに行くべきだったのに、娘に拒絶され、再び関係が悪化するのを恐れてそれが出来なかった』と語った。

しかし、則子の証言を聞き続けた里沙子は寿士の母親、邦枝が息子である寿士を庇おうとしていると感じたのに対し、則子は娘の水穂ではなく、自身を守り正当化しているのではないかといった印象を受ける。
休憩時間に入ると、他の裁判員も則子にあまり良い印象を抱いてはいない様子で『孫に会いに行かなかった、娘の異変に気付けなかった関係の薄さ』を口々に非難する。しかし、里沙子は水穂が母親である則子に嘘をつき続けた気持ちが分かる様な気がしていた。『育児をちゃんとできていない』と指摘されるのが嫌だったからではないかと。

休憩後、則子に対して検察が質問を始める。そこで水穂とその父、弘道との確執がより細かく語られ、水穂と寿士の入籍が事後報告だったことに弘道が激昂し赤ん坊の誕生も祝福しなかったことが明らかになる。そして則子自身も水穂の結婚生活を『気の毒』だと思いつつも、水穂の気分を害さないようにするために、あまり口出しをしないようにしたと言った。そんな則子の話を聞きながら、里沙子は則子と自身の母親がどこか似ていることに気付き、『水穂がこの母親に育児のことを相談できたわけがない』と納得するのであった。

『地方特有の考え』を持って、進学、就職、婚約、結婚…何に対しても自分達の慣習・価値観が正しいと、疑いもせず、そこから少しでも外れれば、娘のすることを非常識だと哀れだと断じて見下してなじる。それを無意識に行うところが、則子と里沙子の母親は同じであった。進学のため東京に行くことを『えらい』と言いながらも決して単純に褒めているわけではない。下宿先の部屋を見て、『地元の短大に進めばこんなみじめな部屋に住まなくても良かったのに』と言い、『男の人に褒められても下心があるだけだから真に受けるな』と忠告する母の言葉は、ただただ自尊心を傷付けてくるばかりだったことを思い出す里沙子。水穂が母である則子に結婚から一戸建て購入、妊娠、出産まで全て相談せずに進めたのは非常識だと非難されたり、憐れまれたりしたくなかったからだと里沙子は考える。そして、母親に肯定してもらいたいがためにも、万事順調だと嘘をつき続け、現実を嘘に近づけるために、もがき苦しみ続けたのではないかと推測するのであった。

則子への質問が全て終わると、公判6日目は終了となった。審理のこと自身のこと、様々なことを考え続け、疲弊した里沙子は同じ裁判員の芳賀六実(はがむつみ)に誘われ喫茶店で少し休んでいくことにした。40代位で既婚、子どもを持たずアパレル業界で働いているという六実は話しやすく、裁判員同士話し合う中でも何かと里沙子に助け船を出してくれて気が許せる相手であった。素直に『水穂の人間像が分からない』と不安を吐露した里沙子。六実に水穂が『ブランド好きな派手な女』『大人しくて何も言い返せないような女』どちらだと思うか尋ねた。すると、六実は『どちらかに二分できるほど単純な人間はいるはずもないし、自分も正直分からない』と答え、『無理して自分の意見をまとめようとせずに最後まで審理を見守るしかないのではないか』と言うのであった。そして、裁判が終わったら一緒に飲もうと里沙子を明るく励ますのであった。

そんな六実に里沙子は裁判が始まってから自身が毎晩酒を飲むようになってしまったことを打ち明ける。公判一日目から毎晩ビールを飲むようになっていた里沙子に対し、夫、陽一郎は自身の方が飲んでいるにもかかわらず、遠回しに咎める発言をし続けていた。そして、そんな陽一郎の態度に、里沙子は飲酒に対して後ろめたさを感じると同時に、陽一郎が『裁判が重荷になった里沙子が、ストレス発散のために酒に溺れ、娘に八つ当たりする』といったストーリーを作ろうとしているのではないかと疑心を持ち始めていた。
悩みを打ち明けた里沙子に六実は『自分は普段から飲んでいるし、裁判中は飲まなきゃやっていられない』と笑い飛ばし、里沙子もその言葉に安心するのであった。

帰宅後、里沙子は陽一郎に『大した量ではないのだから飲み過ぎみたいなことを言わないで欲しい。裁判で疲れていてリラックスしたいだけだ』と告げる。すると陽一郎は里沙子の気疲れに対して理解を示す言動をする一方で『でも、補欠みたいな立場だろ』と言い放った。陽一郎の発言に驚き、補充裁判員だからと言って気を抜ける立場ではないことを言い返した里沙子。しかし、陽一郎は面倒くさそうに言うのであった。

「おれは、たいへんならやめろと言ったんだよ。でもやめないって言い張るのなら、補欠みたいな立場にしてもがんばるしかないよな。疲れて苛つくのもわかるけど、あと数日だし、がんばりなよ」

坂の途中の家 角田光代 301/424

そう言って部屋を去る陽一郎に、何も言い返せない里沙子。里沙子は言いたいことが上手く伝えられないもどかしさを感じつつも、それがいつからなのか、以前は言いたいことをちゃんと言えていたのか、自分たち夫婦が険悪なのかどうなのか…それすら最早分からなくなっていくのであった。

公判7日目~被告人質問で自身の胸の内を語る水穂に里沙子は強く自分を重ねてしまい…

公判7日目、火曜日の朝、夫、陽一郎は今朝は余裕があるからと、娘の文香を義父母宅へ預けに行くのを代わろうかと申し出てきた。驚く里沙子。しかし、里沙子は『木曜日の娘の置き去りのことをまだ疑っているのでは』『娘を預けるついでに義母に何か良くないことを吹き込むのではないか』と疑ってしまい、陽一郎の申し出を断り、普段通り義父母宅へ娘を預けに行った。そして、そんな風に夫を疑うことに自己嫌悪に陥りつつも、今日行われる被告人質問…水穂自身が何を語るのかを心待ちにしている自分がいることに気付くのであった。

法廷に姿を現した被告人、水穂は今までの地味な装いとは一転してフリルのついたピンクのブラウスに、花柄の派手なフレアスカートという華やかな格好で現れ、裁判員達の失笑を買う。印象を悪くする様な水穂の行動に里沙子は何故か苛立ち、慌てるのであった。

まず、検察が精神鑑定医の供述書を読み上げ始める。『厳格な父親に抑圧されて育った水穂は几帳面で真面目、完璧主義な性格に育った。そして夫、寿士と結婚して一年もしないうちから、仕事、家庭の価値観を巡り言い争いが絶えなくなり、暴力こそないものの怒鳴り、酔うと暴言を吐き物にあたる寿士の態度に恐怖を抱き、自分の意見を言えなくなった。犯行時、寿士からもうじき帰るというメールを受け取った水穂は子供が泣き出したことに慌て、風呂に入れて機嫌を取り泣き止ませようとしたところ、不意に現実感を失い、何故か自身が風呂場ではなく強烈な日差しの中、公園にいる様な錯覚に陥った。しかし、これはフラッシュバックに似ているが、寿士に対する恐怖によるPTSDとは考えにくく、事件直後に自身が行った行為を認識し理解する力があり、不安感や緊張感に苛まれていたものの、それは病的なレベルではなかった』…それが精神鑑定医の判断であった。しかし、それを聞いた里沙子は何故か自身も水穂が見たという発光する公園に飲み込まれたような錯覚に陥るのであった。

その後、弁護人の質問に答える形で発言していく水穂。水穂は警察の取り調べではきちんと自身の話を聞いてもらえなかったと言う。男性が苦手であるという水穂は最初に取り調べを行った男性刑事の威圧的な態度に気圧されてしまい、また途中から取り調べを行った女性刑事からは『子どもを殺すなんて同じ人間とは思えない』と言われたという。しかし、取り調べ時の様子を録画したDVDでは、確かに50代位のがたいの良い男性刑事が出てきたものの、これといって威圧的な態度を取っている様子もなく、女性刑事との取り調べの中でも水穂の言うような発言は出てこなかった。だが、里沙子は背が高くてがっしりしているというだけで男性を怖いと感じることは良くあると水穂の発言に共感するのであった。

父親との関係から、自分は男性に対して強く出ることは出来ないと言う水穂は、何事も話し合おうとすると声を荒げ、暴言を吐き、物に当たる寿士に恐怖を覚え、物を言えなくなっていったと語る。子どものことも、水穂自身特に欲しかったわけではないが、年齢的なこともあり寿士と相談したいと思う一方で、口論になるのが怖く自分から口に出すことは出来なかったという。そして、そんな中、『持ち家に住み、専業主婦をしている自分が一番正しい』と思っている実母の則子から、駅から離れた遠い賃貸マンションに住んでいること、働き続けていること、子どもを持たないことを否定する電話を受けて動揺したことを語る。更に、寿士の母親、邦枝が『子どもができない水穂に欠陥があるのでは?』と言っているということを寿士の口から聞いた水穂は両親や義母から認められたいと考え、思い切って寿士に子どものことを相談したという。

その結果、寿士は子どもを作ることを同意し、自身がもう少し収入の良い会社に転職すると同時に、水穂には子どもが少し大きくなるまで仕事を辞めて家に入ることを提案したという。水穂は会社や仕事に愛着を持っていたものの、働きながら子育てをするのは難しいと考え、また寿士の機嫌を損ねることを恐れ、同意したという。

一戸建て購入については水穂が言い出したことではあるものの、それは転職して忙しくなった寿士の通勤のことを考えたためであり、寿士に強制したわけでもなく、見栄を張ってブランド志向で地域を限定したりはしていないと主張する。二人でチラシやインターネットで調べ合ったものの、どちらかというと寿士から諸々の手続きの中『そんなことも分からないのか、常識がない』と幾度も叱られたという。
そして、引っ越しが終わり、妊娠した後、以前の様に飲み会ばかりを優先しないで欲しいという思いから寿士に『父親としての自覚を持って欲しい』というと、寿士は収入のことだと勘違いし、自ら志望して更に忙しい部署に異動してしまったと語る。
その結果、夫の給与は上がり、家も持ち、子どももいる一見幸せな生活が手に入ったものの、水穂は常に娘と二人きりの孤独な生活を送ることになったというのだ。

娘、凜が生後2か月のとき訪問した保健師は威圧的な態度で、『子どもの反応が薄いのは母親の話しかけ方が悪い』『最近虐待する母親が多い』と言ってきた。そして、寿士にそのことを相談すると『水穂が虐待をするような母親に見えたのだろう』と言うだけだった。不安に思った水穂は娘を連れて外に出るようになるも、他の母親たちの言動から娘の発達が遅れており、劣っていると感じるようになり、より落ち込んでいった。更に、寿士から何も相談もなく、突然義母、邦枝が家に通ってくるようになったと水穂は語る。

義母の邦枝は水穂の育児のやり方にダメ出ししては、自身や自身の知り合いと水穂のことを比較して貶す。それだけでなく、夫、寿士が家に帰りたがらないのは水穂がきちんとできていないからだと責めてきた。そして、前は娘を寝かし付けながら一緒に仮眠を取ることが出来たが、邦枝が連日訪問するようになってからはそれも出来ず、寝不足になり、ダメ出しを恐れて家事の手も抜けなくなってしまったのだという。そして、水穂はますます娘の凜が他の赤ん坊よりも劣っているのだと思い込むようになってしまったと語る。
そして、そんな状態を実母、則子からも責められることを恐れて、電話でも本当のことを言えず、全て上手くいっていると嘘をついてしまったというのであった。そして、友人の有美枝にそのことを相談し、子持ちの友人の連絡先を教えてもらい、相談するも療育センターや産後うつの話をされ、一層不安感が増しただけであった。

そんなある時、水穂は寿士から赤ん坊を叩いていると指摘をされる。自身に娘を叩いた自覚は無く、もしかして寿士がやったのではないか疑いもしたが、自分しかそんなことをする人はいないと思い、水穂は娘に手を上げたことを認めた。そして、その時、寿士から『両親と上手くいってない人間にまともな子育てができるはずがない』『親を嫌っている水穂もまた、成長した娘に嫌われるに決まっている』と言われ、大いに傷付いた。その後休日は寿士が娘の面倒を見るようになったものの、寿士の携帯を覗き穂高真琴とのメールのやりとりを見つけて、寿士が娘を真琴に懐かせて離婚して水穂を捨てようとしているのではないかと思い込むようになっていったという。

そして、事件当日、娘は一日機嫌が悪く、乳腺炎を患っていたこともあり、水穂は体調が悪かった。そんな中、寿士から早く帰ってくるというメールを受け取り水穂は焦った。泣き止ませないと寿士からダメだしされると考えた水穂は娘、凜がお風呂に入れると機嫌がよくなりやすいこともあり、急ぎ風呂の準備をしたが、その直後、自身が物凄い日差しの中公園に裸足で立っているような錯覚に陥ったという。そして、耳にはセミの声しか聞こえなかった。気が付くと寿士に強く肩を掴まれ、怒鳴られていたと語り、法廷で泣き出すのであった。

評議室に移動し、他の裁判員達が水穂に対して『被害妄想で悪く物事を捉えすぎ、何でも周囲のせいにしている』といった感想を述べる中、 里沙子は自身が水穂のことを友人の様に感じ、彼女の言うことを全て真実の様に感じていることに驚く。そして、公判1日目、弁護士の冒頭陳述で、保健師の個別健診で泣いた母親がいたことを漠然と思い出した里沙子。保健師の訪問に追い詰められて泣いていたのが自分だったことに気付くのであった

義母の言動もあり、産後、母乳が出ないことに悩んでいた里沙子。里沙子の元を訪問した保健師はベテランで決して威圧的ではなく優しかった。ただ、母乳で育てたいという里沙子に対し、『母乳で育てようとこだわりすぎて大きくならなかったら可哀想でしょう』と粉ミルクを勧めてきたのだ。しかし、かえってそのことで母乳に執着してしまった里沙子は保健師の訪問後、乳首を咥えようともしない当時生後間もなかった娘、文香に苛立ち、支える手を放してしまったことがあった。その時、文香は後頭部を床にぶつけ、軽いコブが出来てしまった。
そして、その一週間後位に同じ保健師が何の連絡もなく再び里沙子の元にやって来たのだ。たまたま近くに来たから…そう、まるで親戚のおばさんの様な態度で家に上がり込んできた保健師に、『監視されている』と感じた里沙子。保健師が監視カメラをどこかに仕込んで、娘を落としたことを見ていたのだと本気で思い始めたのであった。
しかし、保健師は母乳のことも、娘の後頭部のタンコブについても特に言及せず、むしろ自分から『母乳が出ない』『義母が嫌がらせの様に母乳のことで電話してくる』と泣きながら打ち明けた里沙子の背を撫で続け、ただ話を聞いてくれたのであった。そして、医学的な話や統計的な数字を交えながら粉ミルクは決して悪くない、完全母乳と決めつけるべきではないと諭してくれたのであった。

その結果、里沙子は母乳をやめて粉ミルクに切り替えることが出来た。保健師はその後も里沙子を気にかけて定期的に電話をかけてきてくれたのだが、ありがたいと思う一方、電話がかかってくると動悸がして、電話を終えると何とも言えない不快さが毎回あった。『自分は虐待する親として保健師にマークされている』と感じていたためであった。
そして、里沙子はこの一連の記憶を忘れていたのではなく、『あってはいけなかったこと』として封じ込めていたことを自覚するのであった。

取り戻した自身の記憶に呆然とする里沙子をよそに、他の裁判員達は『夫、寿士のことが怖くてモノが言えなかったという割には、稼ぎや年収について言及できたという水穂の発言には矛盾があるのでは』と言い出す。しかし、里沙子はそんな裁判員達の言動に軽い失望を覚える。

何が言えて何が言えないのはおかしい、ということではない。その話題は持ち出せても、このことについてはぜったいに自分からは言えない、そういう感覚が分からないのだ

坂の途中の家 角田光代 334/424

里沙子はいつか一戸建てに住みたいといったことは夫の陽一郎に言える。しかし何故か、夕食を無駄にしたくないから飲み会や会食が入ったら連絡してほしいということを未だに上手く言えないでいる。だから水穂が夫、寿士に収入のことは文句を言えても『早く帰ってきて欲しい』と言えなかったことは決して矛盾しないと里沙子は思うのだ。しかし、この感覚を上手く伝えられる自信が無くて里沙子は口を閉ざす他ないのであった。

検察側の質問が始まると水穂は『覚えていない』という言葉を繰り返すようになった。寿士と交際する前に妻子持ちの男性と交際していたことについて言及し『交際時、寿士に対して、アルバイトの様な仕事しかしていないから父親に紹介できないと言ったか』『結納や結婚式を検討した際、高級ホテルでないとダメだと言ったか』『甲斐性無しや安月給などと寿士を罵ったか』『寿士の母が買ったベビー服を捨てたか』等といった質問をする検察に対して、延々と覚えていない、思い出せないと言い続ける水穂。そして一連の検察の質問を、水穂を貶めるためのためのものだと憤りすら感じる里沙子は自分が強く水穂に肩入れしていることを自覚し、不思議な気持ちになるのであった。

そして、水穂がパソコン上でつけていた育児日記の中身が明かされる。当初、娘の凜の体重、ミルクの回数、睡眠時間の記録のために作られたそれは生後2か月頃から事実と異なることが記されるようになった。万事順調で周囲から褒められた、ママ友と交流した、赤ちゃんモデルにスカウトされた…モニターに映し出された幸福に満ちた虚偽の日記を見た里沙子は、憐憫、共感、同情、恐怖か判然としないが涙が出そうになる。検察側はこの日記について『日記上に理想の子どもを描き続けたことで、現実の娘をそれと比較し、いらないと感じるようになったのではないか』と水穂に尋ねるが、水穂は声を荒げてそれを否定し、日記を書くことで気持ちが休まったと主張した。そして、またいくつか質問をする中、自分に不利な事柄について『覚えていない』と繰り返す水穂に、検察官は皮肉を言う。死んだ娘に対し、水穂が謝罪の言葉を述べたところでその日の審理は終了し、里沙子は弁護人でも水穂自身でもないのに何故か『敗けた』という強い敗北感を味わったのであった。

審理後の評議室は今までになく重苦しい空気に覆われ、裁判員達は誰も何も発言しないまま、解散となった。そして、帰り道、里沙子は裁判員の芳賀六実から『裁判員経験者による交流会があること』『そこで無料カウンセリングなどの精神的なサポートが受けられるので、裁判が終わったら一緒に参加しないか』と誘われる。六実の夫が、六実が裁判を通して不安定になっていることに気付き、色々と調べてくれたのだと語る。

夜、里沙子は帰宅した陽一郎に交流会の話をする。しかし、そっけなく『そのカウンセリングとかなんとかにいくのか』『その間、娘の文香はどうするのか』と言う陽一郎の態度に里沙子は戸惑う。聞けば陽一郎に反対する気はなく、『義父母は文香を預けてもらえた方が喜ぶ』、『安心して治せばいい』と言うのだが、里沙子は陽一郎の発言に失望する。そして、自分も六実の様に、夫から心配してほしかった、裁判員を引き受けたことの心労を理解してほしかったのだということに気付くのであった。

公判8日目~夫、陽一郎の言動に”悪意”を見出していく里沙子

公判8日目、水曜日。娘の文香はいつもより早く起き、愚図り泣きながら里沙子の脚や尻を叩いてくる。夫の陽一郎は目覚ましが鳴り響いているのに起きない。苛立ちながら里沙子は文香の手を振り払い、泣き叫び続ける文香の機嫌を取ることはせず、朝の支度を続けた。起きてきた陽一郎に、文香について『構うともっと泣くから放っておくように』と告げた里沙子。しかし、陽一郎は『あまり泣かせるとしつけの範疇を超えていると近隣から心配されるのでは』と発言し、里沙子の感情を逆なでするのであった。

そして、文香を義父母宅へ預けに行った里沙子は、義母に唐突に『裁判が終わったら精神科に診てもらうのか?』と尋ねられ、絶句する。義母は心配したように『文香ならいつでも預かるし、協力するし、心細いなら病院にも付き添う』と里沙子に言う。義母の言葉に頭が真っ白になるのを感じた里沙子は適当に返事をしてバス停に向かった。

動揺する里沙子の頭に思い浮かぶのは虐待されていたという水穂の娘、凜の赤子特有のふくよかな腕だった。水穂は叩いた覚えがないと言うが、きっと裁判員も傍聴者もそれを嘘、あるいは育児に追い込まれ朦朧とした最中にやってしまったのだろうと思っただろう。しかし、里沙子は、もしかしたら水穂の夫、寿士が水穂を精神的に追い詰めるために自身が赤ん坊を叩き、水穂に濡れ衣を着せた可能性を思いつく。寿士は水穂が保健師の話をすれば『虐待するような母親に見えたのではないか』と言い、『親と上手く行っていない水穂は成長した娘に嫌われる』と言い、水穂に無断で自分の母親、邦枝を通わせた。水穂自身、虐待をしているように夫に疑われていたようだと語った。二人は言い合い、やり合っていたと、水穂の友人の紀谷有美枝は証言するが、本当に水穂と寿士が対等だったか、水穂が寿士に対抗できていたかも分からない。水穂は自身が自覚できないままに自尊心を傷付けられていたかもしれない。
寿士は水穂を心配し、労わる様に装いながら、悪意を持って水穂を傷付けようとしていたのではないかと里沙子は考え始める。寿士は育児を通して水穂の尊厳を傷付け、貶め、虐待をする母親の烙印を押し、母親の邦枝を派遣し、自らも土日育児を協力するように見せかけながら、意図的により一層水穂を精神的に追い詰めていったのだと。

バスの中で里沙子は笑いそうになる。こんなこと他の裁判員達や傍聴人、いや義父母も自分の友人だって理解できないだろう。ただ相手を、妻を痛めつけるためだけに、平気で理由も意味もないことが出来る人間がいるなんてことを理解できないだろうと。

相手といったって、恨みのある相手でもなければ、何かの敵でもない。ごく身近な、憎んでもいない、触れあう距離に眠るだれかを、自分よりそもそも弱いとわかっているだれかを、痛めつけおとしめずにはいられない、そういう人がいるなんてこと。

坂の途中の家 角田光代 358/424

水穂の夫、寿士や自分の夫、陽一郎の様な人間がいることに。

『裁判経験者の交流会の中で行われる無料カウンセリング』と『精神科にかかること』これは義母の聞き間違いや勘違いではなく、陽一郎が悪意を持ってそう義母に伝えたのだと里沙子は確信する。そんな意味不明な悪意、周囲に話したところで理解してはもらえないだろう。しかし、自分の方が飲んでいるにもかかわらず、まるで里沙子がアルコール依存症になっているかのような発言をしたり、裁判員の責務について『無理だったら途中で辞めさせることはできないのか』『できないと認めることは恥ずかしくない』『補欠みたいな立場だろ』と繰り返す。これらの言動が意味することは一つだ。陽一郎は里沙子にこう、刷り込み続けたのだ。

『きみは人並み以下だ』と。

里沙子は陽一郎との馴れ初めから今までの結婚生活をもう一度振り返る。陽一郎は物に当たることも酔って暴言を吐くことも無い。威圧したり怒鳴ったりもしない。
しかし、結婚式の引き出物を決める際、里沙子に任せると言いながら、『こんなもの欲しいと思う人、いる?』と里沙子の選択に文句をつけ、結局自分で選び直す。そして里沙子の招待客に男性客がいるのを見ると、『新婦が男性客を呼ぶのはおかしい』と言った。里沙子が陽一郎自身が女性客を呼んでいることを言及すると『男性が女性を呼ぶのと、女性が男性を呼ぶのは意味が違う。常識だと思う』と言った。
普段の野菜の名前だとか調理法だとかそんな些細なことについても『そんなことも知らないの?』とさりげなく言う。何かにつけて里沙子が常識が不足から変な選択をしているかのように言い続けてきたのだ。
里沙子は陽一郎のそういった言葉に違和感を覚えるようになったものの、それを面倒臭さだと思って、徐々に様々な選択を陽一郎に任せるようになっていった。実際、両親との関係が良くなく、閉鎖的な田舎町で育った里沙子は自身の常識に自信を持っていなかったため、陽一郎から『常識』という言葉を持ち出されると恥ずかしかったのだ。

実際、陽一郎の選択に従った生活に面倒さは無かった。しかし、陽一郎が選んだ実用性重視の家具、値段で決めたカーテン、義父母に送られた馬鹿でかい箪笥に囲まれた築年数の経ったマンションは、里沙子の思い描いていた理想の新居とは程遠いものであった。
妊娠後、不安定になって仕事を辞めようかと陽一郎に相談すると、彼は大賛成した。『母親は家にいるべきだと思う』と笑顔で言った陽一郎に安心したが、あの時仕事を続けると里沙子が言い出したら陽一郎はなんと言ったのだろうか。
そして安定期過ぎて、精神的に不安定になった里沙子が陽一郎に残業や飲み会で遅くなる時は連絡してほしいと頼んだ時、ただ陽一郎は『きみ、おかしいんじゃない?』と言うだけだった。

里沙子は今になって理解する。陽一郎は引き出物が変だと言いたかったわけではない。残業や飲み会で遅くなることを妻に伝える男性はいないと言いたかったわけでもない。陽一郎はただ、里沙子に『君はおかしい、間違っている』と言い続けて劣等感を植え付けたかっただけなのだと。何故、陽一郎がそんなことをするのかは分からない。こんな話をしても誰も理解して信じてくれないだろう。

先週の木曜日、里沙子は夜道で愚図った娘、文香を置いていくフリをしただけなのに、陽一郎は里沙子の弁明を聞かず、まるで虐待したかのように決めつけ、義父母宅に泊める算段をし、裁判員をやめさせようとまでした。きっと、夜道で文香を見つけた時、里沙子を痛めるつける口実が出来たと小躍りしたい気分だったに違いない。
執拗にアルコール依存を心配するような発言をするのも、里沙子のことを酒の力を借りないとろくに裁判に携われない、無能な人間だと言いたかったに違いない。裁判員に選ばれて、社会参加した気になっている妻が許せないのだ…そう”気付いた”里沙子はバスの中にいるにも関わらず、笑い出していた。

法廷にいる水穂はまるで日傘をさして出かけそうな洒落た装いをしていたが、もう裁判員達も驚いた様子は見せなかった。裁判員や裁判官からの補充質問、検察官の論告と弁護人の弁論が続く。しかし、検察官が『水穂の夫、寿士が水穂とは離婚するつもりはなく、水穂の真の反省を見守り、水穂が罪を償った後はあらたに二人で歩んでいきたいと言っている』と告げるのを聞き、里沙子は仰天し絶望する。

里沙子は思う。きっと他の裁判員達は寿士を罪を犯した妻を見限らない、殊勝な夫だと評価するだろう。しかし、本当はそうではなく、寿士は水穂のことを逃がさず、娘を殺したことを一生突き付け続け、苛み続けたいがために、離婚しないのだ。

最終意見陳述で再び証言台に立った水穂は自身を弱い母親だったと言い、夫、寿士にお前がおかしいと言われるのが怖くて娘のことを相談できなかったと改めて述べる。そして娘、凜へ殺意を持ったことはないことと、娘への謝罪の念を告げた。流暢にそれらの言葉を述べる水穂の様子はどこか芝居掛かっていて、ずれているように里沙子には感じられた。そして、そのずれから水穂は今まで人を苛立たせ、戸惑わせ、誤解されて反感を買うのだろう…そう思うのであった。

昼食と長めの休憩のあと、裁判員達は評議に入った。公判8日目の今日は裁判員達で思うことを言い合い、疑問点を出し合う。そして明日、殺意や責任能力の有無を証拠を元に話し合い、明後日判決を出すと裁判官から説明を受ける。
裁判員達は各々、水穂に対して持った印象を語りだす。『水穂は思い込みが激しく、主張に信憑性がないと感じる。子どもも姑への当てつけに産んだだけで愛情がなかったのではないか』『子育ての大変さ、しんどさは理解できるが、周囲との関係を絶って鬱憤を子どもに向けたことは同情できない』…等、それぞれが悩みながらも語る中、里沙子は思い切って『夫、寿士が悪意をもって水穂を追い詰めていったのではないか、昔の恋人、穂高真琴とのメールのやりとりもわざと目に付くように仕組んだのではないか』と主張する。
しかし、里沙子のその主張に、他の裁判員達は戸惑い、混乱するだけで、理解する者はいなかった。里沙子は上手く主張を伝えられないもどかしさを感じると同時に、自身が水穂のことを言いたいのか、自分のことを言いたいのか分からなくなっていく。

間に休憩が入り、その後裁判官が責任能力について説明し始めるも、里沙子は内心混乱し続けたままであった。『責任能力』『どのくらい意識がクリアだったか』…そう考えると、文香を夜道に置き去りにした時、思わず突き飛ばしてしまった時の自分はどの程度クリアだったのか…そう全て自分自身に置き換えて考えてしまうのだ。『自分は補充裁判員だから意見を求められない、決定に携わらない、自分には関係ない』…そう自身に何とか言い聞かせて里沙子は評議をやり過ごすが、帰る直前、女性裁判官に『大丈夫か?』と心配されてしまう。そして、明後日の判決時に里沙子は裁判に参加する義務はなく、座席がないことを告げられ、希望すれば傍聴席を用意すると言われ、愕然とする。ここまで携わってきたにもかかわらず、『補充裁判員』というだけでのけ者にされた様な気になり、落ち込むのであった。

帰り道、地下鉄に乗る里沙子の胸には虚しさが広がっていた。里沙子はこの裁判員裁判で自身が見つめてきたものが、水穂の事件ではなく、他ならぬ自身の結婚生活であることを、もう認めないわけにいかなかった。
そして、夫、陽一郎は里沙子自身が気付かないようなやり方で、里沙子のことを貶め、傷付けてきたのだと改めて確信する。理由はまでは分からなかったが、その考えが揺らぐことはなかった。

義父母の家に寄ると預けていた娘の文香は既に眠っていて、里沙子は眠った文香と、義母が親切心から持たせる、拷問の様に重いおかずのタッパーを持ち、またバスに乗り、電車に乗って自宅へ向かう。しかし、色々と思いを巡らせていた里沙子は電車を乗り越しそうになり、慌てて荷物を持ち電車から飛び出すが、あろうことか眠っていた文香を座席に置いてきてしまう。パニックを起こす里沙子に駅員が駆け寄ってきた。
幸い文香はすぐに駅職員に保護してもらえ、里沙子はすぐに文香と再会できた。しかし、里沙子は文香に謝り続けるも内心では『このことを陽一郎に知られてはならない』『文香が今日のことを陽一郎に説明できるか否か』ばかりを考えていて、そんな自分を怖いと感じるのであった。

マンションの前まで来た里沙子は考える。補充裁判員に何て選ばれなければ今まで通り、何も感じず幸せに暮らせたのか。それともいつか、補充裁判員になって良かったと思える日が来るだろうかと。

陽一郎が帰宅すると、里沙子は思い切って『文香が幼稚園に入ったら再び働こうかな』と言ってみた。すると陽一郎は『それもいいんじゃない』と返す。そして里沙子が『雇ってくれるところがあるだろうか』というと、『7、8年仕事をしていたのだからあるでしょう』と言うのであった。特に否定しなかった陽一郎に里沙子は戸惑い、やはりおかしいのは自身の方なのだろうかと不安になるのであった。

評議~夫、陽一郎の愛の形を考える里沙子

評議の午前中は先日に引き続き、責任能力の有無について裁判員達は意見を出し合った。里沙子は自身にあくまで補充裁判員であると言い聞かせ、あえて集中しないように心掛けていた。そして、議題が量刑に移り、似たような判例の資料が配布されると、里沙子は裁判官に『具合が悪いので休みたい』と告げ、午後の評議を抜け出し、地下のレストランに向かうのであった。

里沙子はレストランで一人食事をする中で、学生の頃の様な解放感を味わいつつ、自分と母親の関係を思い返していた。

母はいつだって里沙子の味方だった。成績が上がれば褒め、絵や作文がコンクールに入選すれば誰よりも喜んだ。しかし、一方で娘が自分より賢くなり、広い世界に出ていくのを猛烈に嫌がっている様であった。そして、里沙子がいつまでも無知で未熟な子供であると自身にも里沙子にも思いこませようとしていたように見えた。

里沙子が窮屈に感じていたのは、田舎町でも家庭でもなく、そんな母親だった。しかし、母を憎く感じることはなく、むしろ好かれたいとすら思う里沙子は次第に母親に対して話題を選び、自身の変化や成長を悟らせず上手く付き合っていった。都内の大学に合格した時、母は諦めたように進学に反対はしなかったものの、下宿を見ては『地元の短大だったらこんなみじめな所に住まなくてすんだのに』等の言葉で里沙子を傷付け、傷付けることで自分の支配下に置こうとしていた。しかし、母は里沙子を憎んでいたのではない。母は自分を愛していたのだと里沙子は思う。

憎しみではない、愛だ。相手をおとしめ、傷つけ、そうすることで、自分の腕から出ていかないようにする。愛しているから。

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そして、それは陽一郎の愛し方でもあると里沙子は結論付ける。そう考えるとつじつまが合うのだ。陽一郎は妻である里沙子が自分には無い知識を持ち、陽一郎が今まで思っていたほど立派でも頼れるわけでもないことを気付くのを恐れていたのだと。そして、里沙子は考えることを放棄してきたがために、そんな単純なことに気付けなかったのだ。
何故自分は考えることを放棄していたのか…それは母の様な、そして陽一郎の様な愛し方しかできない人間に愛されるために、進んでおろかで常識のない人間になりきっていたのだと里沙子は今、はっきりと思う。

裁判員裁判を通して、里沙子は水穂を裁いていたのではない。この数日間、自分自身を裁こうとしていた。そう再確認して里沙子はコーヒーを飲み、再び評議に戻って行った。

類似した判例資料の読み合わせの後、最後に裁判員達は一人ずつ意見を述べることを求められた。里沙子はやはり最後まで水穂を『子どもをブランド品の様に扱う鬼の様な女』には思えなかった。そして素直に『被告人に同情すること』『水穂が見栄からでもプライドからでもなく、自分が愚かな母親だと思い込んでしまったがために、そしてそれを指摘されたくないがために助けを呼べなくなってしまったのではないかと思うこと』を述べるのであった。そして言いたいことを言い切ったと思うのであった。

終章~被告人水穂に下された判決…里沙子は水穂の中に見た幻影に別れを告げる

金曜日、判決が下される日の朝。判決公判は午後2時から行われるにも関わらず、里沙子はいつも通りの時間に家を出て、義父母に娘の文香を預けた。そして、以前見に行ったことのある建売住宅のある街を目指すのであった。そしてそこに各々の家庭の生活の片鱗を見る。以前、売り出し中の建売を見た時は、そこで暮らす自分や夫、陽一郎、文香の姿を想像して楽しんでいたが、もはやそのイメージを思い描くことは出来ず、代わりに裁判を通して見た水穂の暮らしていた整然とした部屋が思い浮かんでくる。
そして、本屋に行き、里沙子は週刊誌を開く。週刊誌では水穂について検察の主張より醜悪に『かつて既婚者と不倫までしていた、ブランド好きでセレブ暮らしに執着していた女』として描かれていた。

その後、用もないのにスーパーへ寄った里沙子は適当に商品を手に取りながら、今後のことを考える。

漠然と離婚を思い浮かべる里沙子。しかし、誰も里沙子の言い分を信じないだろうし、里沙子には職がない。もし、本気で離婚を考えるならば、職を手に入れ、文香の保育園を探す必要がある。そして、そういった自立の手段を巧妙に陽一郎が奪い取っていることにも気付く。
本当に離婚を自分が望んでいるのかも怪しいが、里沙子は陽一郎が彼の愛し方で、自分だけでなく娘の文香も愛するのを恐ろしいと考えるのであった。

その後、裁判所で傍聴席の一番前に座りながら、里沙子は水穂に下される判決を見守った。
懲役9年。
明確な殺意があるとはいいがたいが、責任能力があったとみなされること。しかし、被告人には、初めての育児に戸惑い、周囲の言葉によって自信を無くし、周囲に助けを求められなかったなどの汲むべき事情があること…等が裁判長の口から述べられていく。

それを聞きながら里沙子は夢想する。
『何か月?女の子ですよね?』児童館で初めて見る顔…水穂にそう、話しかける自分を。自分の名と娘の名を名乗り合い、夜泣きが酷い…そんな愚痴を言い合う。思わず保健師の訪問で泣いてしまったことや、完母を目指して挫折した経験を里沙子は語ってしまう。そして、何かと姑の肩を持つ夫への不満を水穂と吐露し合うのだ。また、思わず子どもに当たってしまったことを打ち明けて…夢中でそういったことを話すうちに気持ちがどんどん軽くなっていく感覚を覚えるのだ。そんな風に話し合える友達がずっと欲しかったから。

誰かの母親でもなく、妻でもなく、娘でもない。まっさらな自分に戻って向き合う里沙子と水穂。里沙子はそんなあり得ない出会い、あり得ない時間を夢想していた。

閉廷が告げられる声に、里沙子は自分が泣いていることに気付いた。目の前を水穂が通り過ぎていく。里沙子はたった十日間だけ関わった、もう一人の自分に別れを告げた。

廊下を出ると、裁判員の芳賀六実が里沙子のことを待っていた。連絡先を交換して、飲みに行こうと誘う六実に、里沙子は今日でも大丈夫だと答える。そして、義母には今日は遅くなるとメールするも、夫、陽一郎にはメールを送らないことにした。

六実と笑い合い、はしゃぎながら建物の出入り口に向かう里沙子は、ふと誰かに呼ばれた気がした。振り返ると人波の中に水穂の幻影を見る。そして、里沙子は一礼してさようならと呟くのだった。知り合いがいたのかと尋ねる六実に里沙子は『よく知っている人がいた』と答え、再び歩き出すのであった。

~終わり~

以下、感想と考察

出産・育児の闇…水穂や里沙子は一体何に追い詰められたのか

この小説の特筆すべき点の一つは、産後、育児中に陥る精神的な不安定さの描写だろう。本作を読んだ人の中には『里沙子は何故、そんな産後苦しんだのだろうか』『水穂はただ元々おかしいだけじゃないのか』と思う人も少なくないだろう。しかし、一つ断言したい。自分自身が経験したのでよく分かるが、産後、そして乳児の世話に没頭していると本当に自己肯定感が低くなり、頭がおかしくなるのだ

産後のホルモンの影響なのか、家にこもりがちになり人と関わらなくなるのが原因なのか、慢性的に寝不足になるからなのかよく分からない。とにかくやたらと自信が無くなり、社会すべてが自分と赤子に牙をむいているように感じる。…あの感覚は本当に何なんだろう。

健診や病院に出かけたりするのも怖い、職場や知り合いに電話するのも怖い。電車に乗るのも富士登山並みの覚悟をしないと出来ない。
すごくどうでもいいことで一日悩む(小児科医に診察してもらった後、『ありがとうございました』と言い損ねたとか)。普段なら突かれた程度にしか感じない刺激・ストレスがグーパンで鼻を殴られた並の衝撃に感じられる。
…そのため、母乳のことで義母や保健師に泣くほど追い詰められる里沙子や、保健師や周囲の言葉に『娘は劣っている』と思い込んでしまったという水穂の証言は非常に納得できるのである。よくもまあ、こんなにリアルに描いてくれたものである。出産、育児経験のある人はこの小説を読んで多少なりとも嫌な記憶が呼び起こされるのではないだろうか。

なお、話は逸れるが最近は”産後うつ”は女性だけでなく、男性にも表れるという主張や研究結果が明らかにされている。これに対して『産後うつは女性ホルモンが原因!』『イクメン気取り風情が、大したことしてないくせに軟弱なことを言うな!』とやたら突っかかる人もいるが、私は男性も産後うつになると思っている。
第一子を産んだ時、基本的に家にいて、かなり赤子の世話に携わった私の夫は、今思うと私程じゃないにしても、頭がおかしくなっていた。例えば、単純な足し算すら出来なくなるくらい摩耗していた。『育児楽しんでおいで♡』と半ば強制的に育児休暇を取らされた同じ会社の男性職員は、復帰した時、周囲が絶句する程老け込み、やつれていた。恐らく、ホルモン云々だけでなく『乳児の世話』それ自体に何か人を狂わせる闇があるのだと私は考える。

裁判を通しても真実なんて分からない

そして、この『坂の途中の家』は裁判の難しさをよく描けている。名探偵の推理、警察の取り調べ、法廷…そういったものの中で真実が明らかになるのなんて、フィクションの中だけだ。勿論、現実の事件で犯人が全面的に罪を認めて全てを語る、事実の認定について争いがほとんどないケースもある。しかし、証拠や証言を持ってして浮かび上がってくるそれは、あくまで複数ある真実のうちの一つに過ぎないだろう。真実は一つではない。

本作『坂の途中の家』だってフィクションだ。しかし、そこで描かれる裁判の描写は非常に現実的だ。最後まで『真実』は見えないで終わるのだ。この裁判員裁判の中、水穂本人は勿論、夫である寿士、義母である邦枝、友人である有美枝、実母である則子の証言、警察の調書、弁護人の供述…様々な観点から被告人水穂について語られるが、その人間像はそれぞれ異なっており、次第に『真面目で前向きだったが夫、義母、保健師といった周囲の人々に追い詰められていった哀れな女性』
不倫経験のあるブランド好き、派手好きで思い通りにならない自分の娘を平然と捨てられる非情な女というとても同一人物とは思えない、全く異なる二つの人物像が浮かび上がってくる。 芥川龍之介の藪の中さながらに真相が見えてこなくなる。

水穂本人と関りがある当事者たちですら、こんなに言うことが全く違うのに、裁判員という赤の他人がどうやって水穂の人間像を知れるというのだろうか。
例えば、作中水穂の友人紀谷有美枝は『水穂がスタイルをよくするために娘にバレエを習わせたいと言っていた』と証言する。しかし、これ一つとっても里沙子と裁判員の一人である年配の女性の受け取り方は全く違う。里沙子は証言のこの部分をさして重視していない。他愛のない友人同士の雑談の一部と解釈しているし、恐らく『バレエ』というものをピアノや水泳といった習い事と同列に見ているからだ。一方、年配の女性は『女の子だったらバレエと決めつけている。水穂のブランド志向の表れ』と判断する。年配の女性の正確な年齢は分からないが、彼女の世代においては今より『バレエ』は憧れの習い事で高級感のあるものだったろう。ゆえに『バレエ』=『ブランド志向』という発想に至るのだ。しかし、里沙子の方が水穂と年齢が近いからといって、里沙子の認識が正しく老婦人の認識が誤っていると断言できるわけでもない。水穂が何を思ってそう発言したかなんて分からないからだ。

他の裁判員がどちらかというと『水穂は高慢な自分勝手な女』と捉えていることを察し、『水穂を周囲に追い詰められた哀れな女』と感じている自分が間違っているのではないかと作中、里沙子は悩むことになる。しかし、当たり前だが、多数派が正しいとは限らない。そもそも、人を裁くにあたって正解なんて無いのだ。もしかしたら、突拍子もないと皆から支持されなかった、里沙子の『夫、寿士が全て水穂を追い詰めるために仕組んだ説』が事実かもしれない。しかし、結局それも定かではない。裁判員裁判を通して決まったのは水穂の量刑あって、真実ではない。そこを間違えてはいけないのだ。

…とりあえず、私は裁判員にはなりたくない。恐ろしすぎる。

里沙子の夫、陽一郎は里沙子に対してモラハラをしているのか?

そして、裁判によって変化していく里沙子の心理描写が圧巻だ。里沙子は裁判の後半から、水穂の夫、寿士と自身の夫、陽一郎が悪意、あるいは歪んだ愛情を持って、妻に対して劣等感を植え付け、自尊心を傷付け、自立する力を奪っていると考え始め、それを確信へと変えていく。単純な言葉に置き換えると、要はモラルハラスメント…モラハラである。しかし、果たしてこの里沙子の疑念は正しいのか?以下検討したい。

モラハラの判定が仮に、イジメと同じく『された方がモラハラと感じたらモラハラ』というのであれば、里沙子が陽一郎にモラハラを受けていると確信した時点で、陽一郎はモラハラをしているということになるのだろう。
小説はどうしても主人公に感情移入する上に、著者である角田光代氏の筆力が凄まじいので、読者は里沙子の感じている葛藤や憤怒を共に体験することになるわけだが、果たして読者はどこまで里沙子の主観を信じてよいのだろうか。

何故なら、里沙子の『陽一郎が里沙子を精神的に追い詰めるために、 裁判が重荷になった里沙子が、ストレス発散のために酒に溺れ、娘に八つ当たりするというストーリーを作ろうとしている、夜道に文香を置き去りにしたのを発見した時、陽一郎は小躍りしたいくらいに喜んだに違いない』という主観を読者が一方的に信じてしまっては、まさに作中裁判を通して『水穂の夫、寿士が水穂を精神的に追い詰めるために自身が赤ん坊を叩き、水穂に濡れ衣を着せた。昔の恋人、穂高真琴とのメールのやりとりもわざと目に付くように仕組んだ』と証拠もなしに推測しそれしか考えられなくなっていく里沙子と同じ道をたどることになってしまうのだ。 この小説はいわゆる三人称で描かれているが、基本的に主人公の里沙子の目線でしか描かれていない。そのことに注意して読まないと水穂に引きずり込まれる里沙子と同様、読者も里沙子の感情に引きずられてしまう。

陽一郎は態度こそ穏やかだが、基本的に無神経だ。直接的な暴言はないものの、家事・育児を引き受ける里沙子にこれといった気遣いをする描写はない。その癖、こいつは妙に口が立つため言動が一々厭味ったらしく感じる。ハッキリ言ってうざい。『 何か臭うんだけど』といって下痢した娘を押し付けてくる描写などは殺意湧くレベル。おめーがアイス食わせまくって下痢させたんやないかい。そして、何よりも裁判員の大変さを全く理解していない。
『裁判員を引き受けたくらいで、ものすごい重大な任務をこなしているみたい』『補欠みたいな立場で』
…これらの発言は酷い。裁判員は重責だし、国民の義務として課せられた役目である。実際に里沙子は相当頭を悩ませている。それなのにこういった発言が自然と飛び出すのは里沙子に対する気遣いの無さに加えて、里沙子が推測する様に『自分が知らない世界に妻が行くことへの不安感・嫉妬』があり、里沙子が裁判員をするのが実際面白くなかったのかもしれない。
…しかし、それだけをもってして、陽一郎の一連の行動を全て『悪意あるもの』と決めつけられるのだろうか。

公判4日目、木曜日の夜、里沙子が文香を夜道に置き去りにした様子を見た陽一郎は、翌日金曜日の朝までに、何らかの形で自身の母に連絡を取り、週末実家に家族3人で泊る算段を立てている。ここまでが明確な事実だ。一方陽一郎が木曜日夜のことを義母に言いつけて、虐待の防止、あるいは里沙子自身を追い詰めるために義父母宅への宿泊を企てた』という里沙子の主観には証拠もなく、ただの憶測である可能性が高い。
そもそも義母が陽一郎から『置き去り』の件を聞いていたかも定かではない。里沙子が自ら打ち明けた時に相当ぎょっとした様子を見せたので、初耳だった可能性もある。

公判7日目朝に陽一郎が文香の送りを申し出たのは当てつけではなく、純粋な親切心や、前日夜、里沙子と裁判員裁判について『補欠みたいな立場なのに』と言ってしまったことや言い過ぎてしまったことのバツの悪さをごまかすためかもしれない。ただ、真実は分からない。

公判7日目の夜、陽一郎に伝えた『裁判員経験者の交流会の中で行われる無料カウンセリング』が8日目の朝には義母の中では『精神科への受診』となっていた。ここまでが事実。しかし、陽一郎が悪意を持って義母に事実やニュアンスを変えて伝えたという証拠はなく、単純に義母が勘違いしていた可能性もある。
…読者は冷静に『事実』と『推測』の部分を分けて読み解く必要があるのだ。まさに、裁判員の様に。

個人的な感想として、この作中の陽一郎にモラハラの気が無いとは言えないと思う。何かあると『常識』『おかしいんじゃない』という言葉を持ち出して、自分の意見を押し通そうとする様子は、やはり里沙子を無意識レベルで下に見て、支配しようとしているように感じる。それが里沙子個人に向けられたものなのか、女性、専業主婦といった存在そのものに向けられているのかは定かではないが。
しかし、一方で1馬力で家族を養う男性がパターナリズム的な言動を取ってしまうのはある程度仕方がないのではないかとも私は考えるのだ。
勿論、それが『普通、標準、当たり前なのだから受け入れろ』というつもりは皆目無いし、『養い手を大黒柱としてあがめろ、服従しろ』というのは間違っていると考える。しかし、家計を一手に支える立場では、『自分が家族を支えている、引っ張っている』という自負を持たねば心理的にやっていけないところもあるだろう。そして、里沙子もまた、そういった陽一郎の立場や苦労に思いを馳せている描写はない。それこそ考えるのが面倒くさかったのかもしれないが。しかし、それゆえ、『陽一郎が里沙子に対して一方的にモラハラで支配している』という単純な言葉で二人の関係を結論付けるのには違和感を持ってしまう。

そして、私自身は『全て悪意を持って里沙子を追い詰めるために陽一郎は行動している』とする里沙子の推測には同意できない。上述の通り、全て里沙子の主観で証拠がないことにも加えて、普段娘を可愛がっている様子の陽一郎が、夜道一人で呆然とする娘を見て、小躍りするとまでは思えない、里沙子の推測には無理があると思ってしまうのだ。まあ、これもそもそもフィクションで結論は出ないことだし、現実は残酷な親、非常な人間はいくらでもいる。里沙子の主観を信じるか否かはあくまで読者に委ねられるのだろう。

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まとめ~里沙子はこの先、離婚を選ぶのか?

裁判員として水穂の事件に関わったことで忘れていた、自覚していなかった、あるいは意図的に考えないようにしていた自身の傷や怒り、夫婦の中にある問題を見つめることとなった里沙子裁判を終えた彼女に残ったのは、夫、陽一郎への不信感。里沙子は漠然とだが陽一郎に対して『離婚』まで意識する様になる。ラスト、六実と飲みに行くことを義母にはメールで伝えるも陽一郎に許可も取らず連絡もしないのは自身を支配してきた陽一郎への反抗の兆し、自立への第一歩と言えるだろう。

しかし、私は思うのだ。きっと里沙子は離婚しないだろうと。「離婚したい」という彼女の欲求は一時的なものとして終わってしまうのではないかと。

裁判という非日常によって多大なストレスを与えられ、水穂に自分を重ね過ぎた結果、ある種の興奮状態に陥っている里沙子は冷静な判断能力を欠いている。一時は『陽一郎は里沙子に意図的に劣等感を植え付け、自尊心を傷付け、自立する力を奪い続けてきた』と確信までした里沙子だったが、予想に反して陽一郎は復職を反対しなかったことで、早速その確信も揺らぐ。結局、里沙子の抱いた『確信』も推測、疑惑止まりで証拠もなく実際のところどうなのか分からないまま物語は終わる。そして里沙子自身が自覚している通り、離婚に向けた明確なビジョンがある訳ではなく、手に職がない彼女はただちに行動に移せない。

怒り、不信といった負の感情は意外と続かない。疲れてしまうから。そして、人は喉元過ぎれば熱さを忘れるのだ。
仮に今後も陽一郎に対して不信感を持ち続けたとしても、ラストに見せた様な細やかな反抗を繰り返すことで里沙子はある程度満足するのではないか。そして、日常に戻り今までの様に家事・育児に専念しているうちに怒りや疑念は薄らぎ、彼女はまた忘れてしまうのではないだろうか。かつて産後様々なことで苦しんだのに、裁判が始まるまできれいに蓋をして忘れていたように。
きっと今までの様に、日常の些細な不愉快さは適度に流して行くようになるのではないか。そして時折水穂のことを思い出して、怒り、やるせなさを感じては、またそれを静めながら生きていくのだろう…そう私は思うのである。

3件のコメント

  1. 投稿ありがとうございます。感想と考察に激しく同意します。まるでワタシのまとまらなかった考えを優れた筆致でそのまま記載いただいたよう!とりわけ里沙子が「信用できない語り手」であることのご指摘は膝を打つ思いです。

    1. JF( さん

      コメントありがとうございます。
      里沙子の夫である陽一郎は無神経で、無意識に里沙子を下に見て支配的な行動を取っているのは確かだと思いますが、
      後半から里沙子は明らかに被害妄想に憑りつかれているため、彼女の主観を信じるべきではないと感じました。
      『飲酒を咎められたこと』と『置き去り事件』が引き金になってしまったのでしょうけど。
      しかし、著者である角田光代氏の心理描写と表現力が凄まじく、読む手を止めさせないため、読者はどこかおかしい里沙子の推測も、考える間もなく真実として信じ込まされてしまうのですよね…。

      裁判、子育て、家族、夫婦…等、色々なテーマを内包しており、色々と考えさせられる作品ですが、
      突然裁判員に選ばれ事件の真実を読み解くという試練を与えられた主人公の里沙子同様、読者も著者から読む力を試される作品であると感じました。

      1. 読者が語り手の虚実を判断する必要あることまさにその通りと思います。子育中のお母さんのご苦労を表現しつつ、さまざまなものを内包している興味深い作品であること、おかげで再認識できました。レスありがとうございます。

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